この日記について

教育社会学/日本近現代文学を主に研究しています。
勉強したこと、考えたことを備忘録的にまとめています。
私は研究の意義は、新たな世界の見方を提示することによって、
ひとを自由にしていくこと、そして、いま、ここで苦しい立場に
おかれているひとの新しい一歩に向けた後押しをすること、にあると考えています。
どうかあなたが生きていくための手がかりが、ここにも何かあるように。

(2019年2月:再始動しました。
 断片的な考えを書き留めておくメディアの必要を再び感じるようになったためです。)

応援しています:精華高校演劇部が沖縄で公演します

いつも、新作を楽しみにしている精華高校の演劇部のみなさんが「大阪、ミナミの高校生」シリーズの沖縄公演に向けてクラウドファンディングを実施しています。

motion-gallery.net
クラウドファンディングも、もちろん応援していますが、私は全国にこのような取り組みが広がってほしいし、そして「沖縄」という場所でこの作品群を上演することの意義を強く感じます。今日はそのことについて書きました。

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ワークショップを考える(2)


2月7日、世田谷パブリックシアターにてブックカフェのコーディネーターを担当しました。
(私はこちらの事業の「研究員」を務めており、ブックカフェは持ち込んだ企画を元に実施したものです。

≪演劇WSラボ2018≫研究員募集!~SPTラボラトリー | 世田谷パブリックシアター

なお、以下の記載の文責はブログの著者に帰され、劇場や事業としての見解を示すものではありません)

当日は、同じく「研究員」である、ワークショップの現場に関わる演出家、俳優、劇場スタッフといった面々で、2時間半ほどの対話の時間を持つことができました。
以下では実際の内容をふりかえりながら、私個人のコメントを追加しておきます。

直近のポストにも書いたように、昨今「ワークショップ」ということば自体は多くの場所で目にするようになっています。基本的に「ワークショップ」は、ファシリテーターだけでは成り立たず、参加者が必要です。「ワークショップ」の参加者は、時に応じて、劇場に集まった希望者であったり、学校のあるクラスの生徒であったりしますが、原理的には「ワークショップ」を通じて、私たちは誰とでも(可能的に)「協働」することができる。誰とでも「協働」できるからこそ、誰のために「ワークショップ」をひらくのか、どんな境遇に置かれたひとと優先して「ワークショップ」をしたいのか考える必要が生じます。

この問いを受けて、今回のブックカフェでは、パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』の序章と第1章を読みました。内容については、続く本文をごらんください。

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ワークショップを考える(1)


下記のイベントに登壇します。

「ヨコハマアートサイト」の活動のひとつとして実施されているアートサイトラウンジでは、広く「地域」にひらかれた「アート」と「ひと」の関係について考えます。ちなみに今回のラウンジは、TPAM*1のフリンジ企画のひとつにもなっています(WEBサイトには、まだ情報が反映されていないみたいだけれど)。

アートサイトラウンジvol.20 場づくりとアートの営み

各地では数多くのアートワークショップが開催され、市民の芸術体験を支える場のひとつとして機能しています。鑑賞体験とは一味違ったアートとの関わり。

人とアートの出会いをサポートする案内役としてのアーティストやファシリテーターの働きに注目し、改めて「場づくり」という営みについて考えてみます。

【日 時】2019年2月17日(日) 10:00-12:00
【会 場】Kosha33ホール
【最寄駅】みなとみらい線日本大通り」駅下車 徒歩4分
【参加費】無料
【出 演】
荻野亮一(社会学研究者)
青木拓磨(音楽家/かたるべハッピーザ 代表)
渡邉梨恵子(一般社団法人 谷中のおかって 代表)

【申し込み】
参加申し込みの際は、①お名前、②参加人数、③連絡先メールアドレスをメール(office@y-artsite.org)またはFAXでお知らせください。(定員を超えた場合、ご参加いただけないことがあります。)

[主催]ヨコハマアートサイト事務局
[URL] http://www.y-artsite.org
[E-mail] office@y-artsite.org
[TEL]045-325-0410 (ヨコハマアートサイト事務局)
[FAX]045-325-0414
*2

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あらゆるひとの生存を保障する(1)

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president.jp


年収890万円未満の市民は「社会のお荷物」なのだろうか。いや、断じてそんなことはない、ということを、順序立てて考えていってみたい。

ところで、WEB上の投稿では、しばしば生活保護の受給に対するバッシングを目にすることがある。多くのバッシングには、受給そのものに対する批判と不正受給に対する非難が混在しており、それらが一体となって受給者に対する攻撃となっている。

しかし、これらの殆どは誤った認識に基づくものであり、そもそも日本における生活保護の不正受給はきわめて限定されている。不正受給の総額を算出しても、それらは生活保護にかかる支出の0.5%にも達していない*1。それどころか、日本の生活保護のテイクアップレート(捕捉率)は非常に低い水準にあると考えられており*2、これが概ね20%程度に留まっているということは、本来、公的扶助を受けることのできるひとのうち、80%が適切な援助を受けられていないまま、放置されているということになる。

つまり、生活保護に関していえば、不正受給を非難するより、本来、受給資格のあるひとの漏れを心配する方が明らかに優先されるべき社会課題であろうということだ。

また生活保護に対するバッシングの中には、なぜ受給者に人並みの生活をさせるのか、という主張もみられるが、これも社会保障制度の歴史を紐解けば、むしろ歴史に逆行する言明であるといえ、現代社会がどのような経緯を経て成立したのか、その理解が欠如していると言わざるをえない。

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