生と性をめぐるささやかな冒険たち(1) - 天使なんかじゃない より続きのポスト。
(承前)
「大阪、ミナミの高校生2」と「地域の物語」は互いに目配せしあったことは一切ないが、後者は前者の疑問に対する大人からのこたえであると同時に、さらなる問いかけでもあった。
セックスやパートナーシップをめぐって「地域の物語」には、たとえば「大阪、ミナミの高校生2」では問題にならないような話題がのぼる。たとえば、セックスレス、あるいは「妊活」。
今年の「地域の物語」では「男と子育て」「セックス」「男らしさ・女らしさ」、3つのテーマを設けて制作を進めてきた。この「地域の物語」の内容とインプレッションについては、既に多くの場所で、多くのひとがさまざまなことを述べている。だから、私からは必要と思えることを必要なだけ。主にアフタートークで話題になったいくつかの論点を拾ってみる。
生と性をめぐるささやかな冒険たち(1)
ヘラヘラと笑う体育科の教員が木の棒にコンドームをつけた。私の高校時代の保健体育の授業についての、唯一の思い出。滑稽だ。テストでは女性器と男性器の部位の名称を記述させられた気がする。
小学生だったとき、ある日、授業の時間に男子だけ外で遊んできなさい、と言われたこともあった。私たちは突然のことに戸惑った。それから、しばらく時期を経るまで、私は月経についての正しい知識を持ち合わせなかった。
若いひとに向けてつくられた多くの娯楽作品は恋愛をあつかう。恋をすることは、まるで青春の専売特許のようだった。それが少しだけ怖かった。中高生という人生でいちばん恋をするのにふさわしいらしい時期を、男子校という、私にとってはいやでたまらない場所で浪費してしまうだけなのか。その後にも恋はあるのかどうか、そのころには、まだわからなかった。
「うつくしい」ニッポンの「ふるさと」
舞台には、はじめからおわりまで音程のずれた「ふるさと」が流れていた。そんなことはないのだけれど、そんな気持ちにさせられる。相馬農業高等学校飯館校 演劇部「-サテライト仮想劇- いつか、その日に、」を観た。
私たちには、そもそも絵に描いた「うつくしい」「ふるさと」など、はじめからないのかもしれない。原発事故で避難を強いられた飯館村の子どもたちが、避難指示が解除されたことを喜びあう、そんな話では全然ないところがすばらしい。
*「途中の場所」で
作品に登場する3人の生徒、ハルカ、サトル、ユキは、いずれも飯館村に直接ルーツをもっているわけではない。だから、飯館村を誇ることも、郷土愛を強烈に発揮することもない。それどころか、彼らが飯館校サテライトに根をおろしたのは、そうしたかった=自ら積極的に望んだから、ではなかった。そうするほかなかった、からである。
劇中で明言されている限り、ハルカとサトルのふたりは、彼らのことばを借りれば、中学生のころ、成績が「オール1」の「不登校児」だった。定員割れをしている飯館校サテライト「くらいしか」彼らの通うことのできる高校はなかったのである。あるいは、サテライトは、定時制と比較した末、全日制の高校だからという理由で辛うじて選択される程度の場所でしかなかった。
ハルカにとっても、サトルにとっても、飯館校サテライトは、いわば、道行きの「途中の場所」でしかなく、中途半端な居場所にしか過ぎなかった、はずだったのだ。
そもそも、飯館校サテライト自体が「途中の場所」であり、中途半端な空間である。相馬農業高等学校飯館校の「本来の」所在地は飯館村なのであって、サテライトはさしあたりの学校運営のために用意された場所に過ぎない。その象徴が彼らの通う、他校の敷地を間借りしたプレハブ校舎だろう。飯館校サテライトは「ふるさと」ときいたときに、想像するような場所ではない、雑然とした、中間的な場所なのである。
ところが、飯館校サテライトの持つ意味はあるとき、反転する-。
私は、私のことばを取り戻す.
17歳。一度きりの一年。はじめての愛。はじめてのピアス。
白みはじめた空を横目に、線路沿いの路地をお気に入りのチェスターコートのポケットに手を突っ込みながら、ずんずん歩く。低い冬の陽射しがキラキラと水たまりに乱反射している。吐く息も白かった。
世界の何もかもがきらきらしてみえて、だから、大人はほんとうのことなんて何ひとつ知らないのだと思った。
それどころか、大人になることは、ほんとうのことをひとつずつ忘れていくことだ。私だけが、私たちだけが、ほんとうのことを、世界の秘密をしっている。けれど、それは日毎に少しずつ少しずつ失われていく。
「わからない」ことを生きる.
私たちは、どれくらい世界をまだわかっていないのだろうか。
あなたまでの距離はあと何マイルくらいの遠さにあるのだろうか。
発達に特性のある学生さんから話をきく機会を幾度も持ってきた。彼ら/彼女たちと話をしていて、よく持ち出される「困り感」のひとつが、(彼らからすれば)他のひとにはわかっているようにみえる、他者の感情の機微が自分たちにはわからないということだ。確かにその「困り感」自体は、とても納得のいくもので、たとえば、そのわからなさによって、彼や彼女が「空気を読めない」と周囲から謗られ、次第に孤立していってしまうプロセスもよくわかる。だから、安易なことをいってはいけない。いってはいけないのだけれど、それでも思うのは、それでは発達に課題があるとされていない、いわゆる定型発達のひとは、ひとの感情、もっと広くいえば、ひとのことが、それほどよくわかっているのか、ということだ。
実のところ、私たちはたぶんわからないものに囲まれて生きている。
「みえないもの」と共にあること.
*
ワークショップに関わってくださったみなさんへ
今回は参加して下さったみなさんにお礼をお伝えしたくて、
どんなふうにまとめたらいいだろう、何を書いたらいいだろう。
高校生のための文章教室<2>
前回は何かを「書く」ということ、それ自体の意味について考えてみたのだった。
それから〈あなた〉には2週間くらい身辺のどんなことでもいいから、少しだけでも気がついたことや感じたことを思うままに書いてみて欲しいというお願いをした。〈あなた〉は何かを書いてみてくれただろうか?
些細に思える生活の断片でも、空想の翼を広げたフィクションであってもいい。
書きたいことを書きたいだけ、ひとまず書いてみて、それでも、やはり何だか釈然としない、不全感が残るような気持ちになっただろうか。少し意地悪なようだけれど、その不全感にもし出会ってくれたならば〈あなた〉はきっと、これから私の書くことをわかちあうことができるだろう。
ただただ楽しかった、それも、もちろん素晴らしい感想なのだけれど、この文章教室は、およそひねくれたひとに向けて開講されているので、これから書くことは少しあなた向きではないかもしれない(そして理屈っぽすぎると感じるかもしれない)。でも、少しだけ我慢して、ひとつの考え方にふれてみてほしい。
「書く」ことと不全感は、おそらく切っても切り離せない関係にある。
なぜなら、それは〈私〉と世界の根本的な関係に由来する感覚だからだ。
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