そうであること、そうあるべきこと

私にも、あなたにもそれぞれの正しさがあり、どちらかを選択しなければならないということでもないとき、ひとは事がらを前に戸惑い、そして口ごもってしまいます。

教育もまたひとつの対人援助の実践であるとするならば、学校の中で教員が直面する課題の多くは、そのような戸惑いと言い澱みを伴ったものであると言わなければならないでしょう。それどころか、正解がはっきりとわかることの方が少ないと書いた方が、現実に即した記述であるかもしれません。

たとえば、発達に課題のある生徒がクラスに含まれる場合、担任や授業担当は何を、どこまでケアするべきなのでしょう。普通科高校で、特別な研修があるわけでもない勤務校において、残念ですが教員にできることは限られています。

しかし、それでも私自身は彼や彼女に対して一貫した原理をもって関わりを持つべきであるとは考えています。というのも、たとえば、問題が生活指導上の事がらであるならば、私は教員ごとの温度差は存在していいと考えています。それどころか、頭髪に関する考え方、不登校傾向にある生徒への接し方、授業態度やふるまい方への関わり方、それらの内にグラデーションが存在することで、生徒たちは自分なりの落ち着きどころをみつけることができます。

けれども、発達に課題のある生徒がクラスに含まれていたとき、教員は対応を一貫させずに各々の裁量に任せてしまっていいのでしょうか。発達特性に応じて、彼や彼女には得手とするところ、そして不得手とし、怠けているわけではなく、行うことが難しいことが存在します。そのような状況下で、ある教員は彼や彼女のそのようなふるまい方を厳しく指導し、ある教員はみてみぬふりをしてやり過ごそうとする。

ここで問題なのは、指導をするか、しないかということではありません。むしろ、おそらくは両方の選択肢が並列して存在していることが問題なのです。生徒は、特性に応じてそれぞれのふるまい方で学校生活に参画します。しかし、そのときに叱られたり、叱られなかったりする。そのような生徒指導のあり方は、私は彼や彼女にとって混乱をもたらすものになってしまうのではないかと心配してしまう。

しかし、私の同僚のひとりはむしろそのような状況に肯定的です。なぜなら、彼のことばを借りれば、世間は理不尽なものであり、一般就労を希望する発達に課題のある生徒が今後直面するのは、その理不尽さに他ならないからです。ですから、彼の言葉を借りれば、むしろ、一貫しない対応の中に生徒が置かれることは、世間に出ていくための予行練習だということになります。さらに、同僚の感覚では、教員の足並みと指導方針を統一するという行いはそもそも現実的でなく、またどこか違和を感じさせるものに映るようです。

私は同僚の考え方に賛成はしませんが、しかし、彼の考え方にも一定の度合いで正しさがあることは認めざるをえません。確かに発達に課題のある子どもや若者にとって、現代社会は理不尽な環境であることが多いからです。

それにしても、と私はそこで立ちどまって、さらに考えてみます。
学校という場所はどんな場所なのだろう。どんな場所であるべきなのだろう。


社会がある仕方で成立しているとき、学校もまたそのような社会のあり方を模倣し、いわば小さな社会として機能し、生徒たちを世間へと送り出さなければならないのでしょうか。日本社会の方向性は、むしろそちらを向いているようにも思えます。そうであることへ向けて、学校のあり方を沿わせていくこと。

一方で、教育哲学者のモレンハウアーは、学校空間の自律性を肯定的に評価し、その理由を社会と異なった秩序とリズムで学校空間が成立することによって、学校空間が社会を更新する拠点となりうることを挙げています。

すなわち、社会が「そうである」ときであれ、学校は異なった「そうあるべき」ことを貫く場所としてありえ、そして、そのことが社会改良(更新)に結びつくものであろうというのが、モレンハウアーの主張の骨子です。

良心的な教員は多くの場合、生徒が社会に出たとき、不利益を被ることがないように、と学習指導を生活指導を進めます。その視点自体は決して誤りではない。けれども、同時に考えなければならないことは、学校が「そうである」社会に追従するだけでなく、「そうである」社会と批判的に対峙し、ときに新たな「そうあるべき」を提示して、社会を新たなものとしていく拠点となるべきではないかということです。

その意味でも、私は社会が理不尽だからという理由で、発達に課題がある生徒に必要のない理不尽な経験をさせるということには、やはりどこかで納得しがたい気持ちがあります。みなさんは、この問いを、どんなふうに考えますか?

「させる」でも「してもらう」でもなく

私は生徒に何かを「させる」という表現や言い方が好きではありません。もっと、正確に書くならば、生徒だけでなく、誰に対してであっても基本的に何かを「させる」ことをしたくはない。

しかし、学校臨床にはふしぎと「させる」に関する話法があり、たとえば、研究授業の際に配布する指導案にも、あるいは年間の科目指導計画にも、いたるところに生徒に何かを「させる」ということばをみてとることができます。

これはどうやら根強い文化のようで、私の知る限り、教員養成系の大学や教育学部では場所によっては教育実習の際の指導案の書き方であったり、日誌のつけ方の段階から、この、生徒に何かを「させる」という表記をするという文化は徹底されるときいています。

何かを「させる」ことは、訓練ではあっても、私は教育では、あるいは学習ではないと考えています。あたりまえのことの繰り返しになりますが、学習の本質とは、まず学習者が能動的にその場に臨むことにあると考えられるからです。

しかし、近年のアクティブラーニングの流行を目にして、それらに諸手を挙げて与することができないことも一方で確かです。私は「対話」やアクティブラーニングということばが一般に流通する以前から、学校現場での授業開発や実践に学生→研究者として関わってきましたが(そのころは、せいぜい協働学習ということばが使われていた程度だったと記憶しています)、近年のアクティブラーニングをめぐる状況を観察していると、教員が不必要に先回りして、お膳立てばかりしてしまい、形式的にはアクティブであっても、実際にはパッシブとしかいようのない学習環境がそこかしこにみられるように感じているからです。

協働する、ということは決して話し合い活動を多用することや、iPadを教育現場に持ち込むことによってだけ実現されるものではありませんし、国際バカロレアもデザイン思考も関係なく、それ以前から戦後の教育史の内で問われてきた主題です。

完成されたアプリをタブレットに搭載し、教員が綿密に学級をコントロールする、やけに丁寧なアクティブラーニングの事例は、私には生徒に「してもらう」ための実践のように思えます。

そして、生徒に「してもらう」ことと「させる」ことは結局コインの表と裏のようなものです。「してもらう」ことも「させる」ことも、どちらも本質的には学習者の能動性を引き出すことに成功しているということはできません。

私は、自分の授業では生徒に繰り返し「お客さまになってはいけない」という話をします。もちろん「させる」ことはできるだけ減らしたいけれど、一方で「してもらう」という奇妙なへりくだりをするつもりも一切ありません。

ひとりの大人として、そして教育職員として教壇に立ち粛々と授業をしますが、その際に私は生徒と一緒に学習をしたい。私も学び、生徒も学ぶという環境を一緒につくりだしたい。だから、私にとって、学びの場は「する」場所です。どちらかが一方的に何かをさせたり、させられたり、あるいはしてもらったり、したりするのではなく、私もあなたもともに何かをする。国語科であれば、目の前のテクストを読み、ともに問いを考える、ということ。

私にとって大切なのは「させる」でも「してもらう」でもなく「する」ことです。

そして、このことはおそらく中岡成文さん(私の先生の一人です)が、早くから注目しており、さいきんでは國分功一郎さんが取り上げたことで一気に知名度のあがった「中動態」という概念とも、どこかで響き合うことのはずなのですが、そのことはまた別の機会に、このブログにきっと書きます。

いつもわらってなんかいられない

この時期、新入生や「新社会人」に向けたアドバイスの記事をよく目にします。役立つものも多い一方、先日首をかしげたのが初任の教員を対象に書かれた記事でした。そこには「初任者(新任者)は、とにかく、いつでも笑顔で!」といったことが書かれていて、何となくその記述に違和感をおぼえたのです。

「統制された情緒的関与」とは、対人援助技術の基本として語られるバイステックの七原則のひとつで、対人援助職は常に共感的態度を保持しつつ、一方で相談者(クライアント)の焦りや不安といった感情に呑みこまれることなく、自分自身の感情をコントロールする必要があるということが、その内容です。

ところで「感情管理」とは、社会学者のホックシールドらが整理した概念で、近代以降の社会において、私たちの感情が社会によって統制され、一面化させられている状況を批判的に指摘した概念です。「感情管理」については、その後、看護現場を中心とした「感情労働」の議論でもよく知られています。

それでは、教員はいつでもわらっていたほうがいいのだろうか。

このことを考えるにあたって思うのは、学校現場で繰り返される生徒に対する「自己表現」の要求です。子どもたちは、小学生の頃から、場合によってはそれ以前から、繰り返し「自分らしさ」や自分を表現することを求められてきています。

自分を表現することを求める現場に、きびしい「感情管理」が敷かれているならば、当然そこでの「自己表現」は歪なものとならざるをえません。私はこのゆがみは社会のいたるところにみてとれるように考えており、ここからどれだけ自由になることができるかということが、国語科教育のひとつの要諦であるさえ、おもっています。

生徒に「自分らしく」あること、自分の気持ちや考えを豊かに表現することを求めるならば、やはり教員も、というよりも、学校にいる大人もまた、ひとりの人間として、率直に自分の気持ちや考えをそのたびごとに表明してもいいのではないかしら。

たしかに、バイステックの七原則もよく練られたもので、現場を重ねれば重ねるだけ、不安や緊張の伝染という現象に気づかされますし、対人援助職が、専門職として仕事を全うする意味でも「統制された情緒的関与」は必要とされる事がらのひとつだと思います。

特に新入生はそうでなくても緊張していて、そこに教室へやってきた教員がピリピリとした不安をまとっていたら、もうどうしようもなくなってしまう。その意味で「いつでも笑顔で」は、半分は正解なのかもしれません。

とはいえ、私はやはり「ゆらぎ」やニュアンスを大切にしたい。自分を表現するということの第一歩は、自分の気持ちや考えに気がつくことのできるひとになるということです。それを説く大人がいきすぎた感情の統制をしているならば、それは私にはどこか欺瞞に、そしてうつろに思えてしまうから。

だから、あえてここには書いておきたいのです。いつもわらってなんかいられない。

私はわすれない

書きたいことは少しずつたまっていて、だけれど、
他の仕事や原稿に追われたまま、年度をまたいでしまって今年もまた四月を迎えています。

私ごとなのだけれど、学校教員になりました。
国語科の教員として、主に高校生に現代文や小論文を授業します。しばらくは、あまり実感がわかずにいたのだけれど、
四月と共に教員会議がはじまって、ようやく自分の立場を実感しているところです。

私は単年度契約の非常勤だから、次年度も同じ学校にいられるかどうかはわからない。
けれど、それでも生徒のために力を尽くしたいとはおもっています。
国語が好きで得意な子へも、そうでない子へも。

そして、私の勤務校は、みんなが憧れるような学校ではありません。
すごく荒れているわけでもないけれど、どちらかといったら、選ばれて進学するというよりも、結果として進学することになったという生徒が少なくないような学校です。元気に楽しく四月を迎えられているのなら、もちろんいいのだけれど、そうではなくて、ちょっとがっかりした気持ちや期待の薄い気持ちで新しい春を迎えた生徒もあるかもしれない。この時期まずは、そういうひとたちにこそ、寄り添えたらとおもうし、互いに励ましあっていけたらとおもいます。

学校という場所が、生徒にとっておどろくほど、たくさんの「禁止」や「ダメ」に溢れていることに会議に出席しておどろきました。正確に書くならば、思い出したのかもしれません。同じように、たくさんの「ダメ」に囲まれて、いつも不満げな顔をしていた、いつかの自分のことを。

生徒に向き合うひとりの大人、そして教科指導を行うという意味では私はプロでありたいです。一方でふと思いだすのは、三田キャンパスで受けた教職の授業で、ある先生が熱心に「アマチュア」であることの大事さを説いていた風景です。そのときの私には、どうしてそれが重要なのかも、どうして教職の授業でそんな話がされるのかも、よくわからずにいた。

でも、今になって、なぜ、あのとき先生が「アマチュア」であることの大事さを訴えたのか、少しだけわかる気がしています。私はプロになりたいけど「アマチュア」でもあり続けたい。学校って、こんなにもたくさんの「禁止」があるんだということに違和感を抱くこころを殺さずに、教員を続けていきたい。

だから、考えあぐねていたブログの名前を「私はわすれない」に改めました。
日々を重ねていると当たり前でなかったはずのことが次々と当たり前になっていく。
それが好ましいことであるときもあれば、そうでないときもあります。

「わすれない」ために、少しずつですが様々なことを書き留めていきます。