いつもわらってなんかいられない

この時期、新入生や「新社会人」に向けたアドバイスの記事をよく目にします。役立つものも多い一方、先日首をかしげたのが初任の教員を対象に書かれた記事でした。そこには「初任者(新任者)は、とにかく、いつでも笑顔で!」といったことが書かれていて、何となくその記述に違和感をおぼえたのです。

「統制された情緒的関与」とは、対人援助技術の基本として語られるバイステックの七原則のひとつで、対人援助職は常に共感的態度を保持しつつ、一方で相談者(クライアント)の焦りや不安といった感情に呑みこまれることなく、自分自身の感情をコントロールする必要があるということが、その内容です。

ところで「感情管理」とは、社会学者のホックシールドらが整理した概念で、近代以降の社会において、私たちの感情が社会によって統制され、一面化させられている状況を批判的に指摘した概念です。「感情管理」については、その後、看護現場を中心とした「感情労働」の議論でもよく知られています。

それでは、教員はいつでもわらっていたほうがいいのだろうか。

このことを考えるにあたって思うのは、学校現場で繰り返される生徒に対する「自己表現」の要求です。子どもたちは、小学生の頃から、
場合によってはそれ以前から、繰り返し「自分らしさ」や自分を表現することを求められてきています。

自分を表現することを求める現場に、きびしい「感情管理」が敷かれているならば、当然そこでの「自己表現」は歪なものとならざるをえません。私はこのゆがみは社会のいたるところにみてとれるように考えており、ここからどれだけ自由になることができるかということが、国語科教育のひとつの要諦であるさえ、おもっています。

生徒に「自分らしく」あること、自分の気持ちや考えを豊かに表現することを求めるならば、やはり教員も、というよりも、学校にいる大人もまた、ひとりの人間として、率直に自分の気持ちや考えをそのたびごとに表明してもいいのではないかしら。

たしかに、バイステックの七原則もよく練られたもので、現場を重ねれば重ねるだけ、不安や緊張の伝染という現象に気づかされますし、
対人援助職が、専門職として仕事を全うする意味でも「統制された情緒的関与」は必要とされる事がらのひとつだと思います。

特に新入生はそうでなくても緊張していて、そこに教室へやってきた教員がピリピリとした不安をまとっていたら、もうどうしようもなくなってしまう。その意味で「いつでも笑顔で」は、半分は正解なのかもしれません。

とはいえ、私はやはり「ゆらぎ」やニュアンスを大切にしたい。自分を表現するということの第一歩は、自分の気持ちや考えに気がつくことのできるひとになるということです。それを説く大人がいきすぎた感情の統制をしているならば、それは私にはどこか欺瞞に、そしてうつろに思えてしまうから。

だから、あえてここには書いておきたいのです。いつもわらってなんかいられない。

私はわすれない

書きたいことは少しずつたまっていて、だけれど、
他の仕事や原稿に追われたまま、年度をまたいでしまって今年もまた四月を迎えています。

私ごとなのだけれど、学校教員になりました。
国語科の教員として、主に高校生に現代文や小論文を授業します。しばらくは、あまり実感がわかずにいたのだけれど、
四月と共に教員会議がはじまって、ようやく自分の立場を実感しているところです。

私は単年度契約の非常勤だから、次年度も同じ学校にいられるかどうかはわからない。
けれど、それでも生徒のために力を尽くしたいとはおもっています。
国語が好きで得意な子へも、そうでない子へも。

そして、私の勤務校は、みんなが憧れるような学校ではありません。
すごく荒れているわけでもないけれど、どちらかといったら、選ばれて進学するというよりも、結果として進学することになったという生徒が少なくないような学校です。元気に楽しく四月を迎えられているのなら、もちろんいいのだけれど、そうではなくて、ちょっとがっかりした気持ちや期待の薄い気持ちで新しい春を迎えた生徒もあるかもしれない。この時期まずは、そういうひとたちにこそ、寄り添えたらとおもうし、互いに励ましあっていけたらとおもいます。

学校という場所が、生徒にとっておどろくほど、たくさんの「禁止」や「ダメ」に溢れていることに会議に出席しておどろきました。
正確に書くならば、思い出したのかもしれません。
同じように、たくさんの「ダメ」に囲まれて、いつも不満げな顔をしていた、いつかの自分のことを。

生徒に向き合うひとりの大人、そして教科指導を行うという意味では私はプロでありたいです。一方でふと思いだすのは、三田キャンパスで受けた教職の授業で、ある先生が熱心に「アマチュア」であることの大事さを説いていた風景です。そのときの私には、どうしてそれが重要なのかも、どうして教職の授業でそんな話がされるのかも、よくわからずにいた。

でも、今になって、なぜ、あのとき先生が「アマチュア」であることの大事さを訴えたのか、少しだけわかる気がしています。
私はプロになりたいけど「アマチュア」でもあり続けたい。
学校って、こんなにもたくさんの「禁止」があるんだということに違和感を抱くこころを殺さずに、教員を続けていきたい。

だから、考えあぐねていたブログの名前を「私はわすれない」に改めました。
日々を重ねていると当たり前でなかったはずのことが次々と当たり前になっていく。
それが好ましいことであるときもあれば、そうでないときもあります。

「わすれない」ために、少しずつですが様々なことを書き留めていきます。