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何もかもが消えてしまうその日まで

ひとが亡くなったので、ブログをはじめることにした。

 

 

そのひとは夜、仕事の最中にたおれて、ほんの数分の間に帰らぬひととなった。

持病があったわけでもない。まだ40代だった。

その日の夕方、私はそのひとから話をちょうど聞いたところだったから

翌日その知らせを目にしたとき愕然とした。何の悪い冗談だ、これは。

 

ひとはこんなに簡単にいなくなるんだ。

 

世界は残酷にも進みつづける。朝に知らせを受けるまで、

私にとって、その日は昨日の続きの今日でしかなかった。

でも、そのひとの今は永遠に昨日でとまってしまって、

今日を迎えることができなかったんだ。

 

私はそのひとと特別親しかったわけでも、

何かお世話になっていたということでもない。

でも、週に一度は必ず仕事であうひとだったから、そのひとの不在が随分とこたえる。

 

まだ、あたりにはそのひとの存在の痕跡が色濃く充満している。

 

悲しいということもあるけれど、私の感情をひとことであらわすならば、

「こわい」だ。ご冥福をお祈りします、なんて、したり顔でいっているけれど、

本当はこんなにひとがあっさりと、そして、突然と亡くなるのだということを

まざまざと見せつけられて、いまはただ、うろたえ、戸惑っている。

 

ひとは生きているあいだ、何をのこすことができるだろうか。

心臓がその拍動をとめて、身体が生きることをやめても、

何か生きつづけるものは、果たしてあるんだろうか。

 

生きることはつらい。

生きることは苦しい。

生きることは--。

 

もしも、身体はやかれても、ひとの間に生き続けるものがあるのだとしたら、

私は、それをそのひとの「こころ」と呼びたい気がする。

「たましい」といってもいいけれど、現代の日本語の「たましい」

という言葉には胡乱な響きがついてまわるから、ここではつかわない。

 

はじまりに戻ろう。

 

だから、そのときどき、変化する「こころ」をどこかに書き留めておきたくて

誰かに私の生の航跡を見届けてほしくて、電子の海に投瓶通信のように、

私はこうして言葉を綴ってみることにした。

 

17歳という永遠のアドレッセンスに憧れながら、

死に至るときまで、私はきっと、何かを思うこと、感じることをやめないだろう。

 

その日まで私たちのパレードは続く。