読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

精華高校『大阪、ミナミの高校生』をみた

高校演劇サミット最終日、精華高校演劇部『大阪、ミナミの高校生』を観た。

 

日本における「子どもの貧困」は一人親家庭では50%をこえていて、DVの発生件数は警察が認知しているだけでも約6万3000件をこえており、厚労省の統計によれば、母子家庭の数は近年増加の傾向にあるという。同じ統計によると子どものいる家庭のうちの7%近くが母子家庭、つまり、一学年が300人だとしたら、20人弱、母子家庭で育つ子がいるってことだ。でも、実際には、これには地域差もあるだろうから、東京の山の手のような、いわゆる「ハイブロー」な地域ではその割合は低いだろうし、暮らしむきや生きること自体が、どうしてもしんどくされている地域では、もっと割合は高いだろう。

 

 

 

個人的なことを書く。

私もかつて演劇をしていた高校生で、そして母子家庭で育った。

 

私の場合、所属していた中高が、それなりの進学校だったから、もちろん賢い彼らは表立って何かをいうようなことはなかったけれど、それでもどことなく風当たりはあるように思えたし、居心地が悪かった。一流企業勤務、医師、弁護士、大学教員、みんなの父親はそんな職業のひとばかりだったから。一方で私の母は、そのころ神経症を患いながら、介護施設で介護福祉士として低賃金労働にあえいでいた。(私は、中高には学校の奨学金で通わせてもらっていた。)

 

そんな現実をふきとばしてくれるものが、私にとっては演劇だった。演劇、特にアングラといわれるような演劇の領域では、ネガティブな要素や普通に考えれば負の経験とされるようなものの価値が転倒させられ、それらが輝かしく特別なものになる。中高生にはあまり伝わらないかもしれないけれど、かつての「見世物小屋」文化みたいな性格を演劇は今でもどこかでもっているということができるだろう。悲惨だったり、つらいひとが、逆説的に輝ける場所。私にとって演劇というそういうことのできる場所だった。

 

 

ところで、リアルであることってなんだろう。

 

舞台上にそのまま「本当のこと」をのせたら、それがリアルなんだろうか。あるいは現代口語演劇といわれるように話し言葉で音量も普段と同じようにボソボソとあちらこちらで話をすれば、それがリアルなんだろうか。私は、どちらもリアルだとは思わない。

 

おそらく、演劇によってはじめて可能になるリアルがあるんだ。そんなリアルに私はこの作品、『大阪、ミナミの高校生』で立ち会えた気がした

 

ここでようやく作品の内容に立ちいる。マリーなんて女の子は、この世界のどこにも存在しないのだけれど、私はたしかに今日、劇場でマリーに会った。素敵な女の子だと思った。トムもいない。けれど、彼にも会った。がんばってほしいと思った。

 

少しだけ構成にも触れておこう。『大阪、ミナミの高校生』は、多層的な構造を持った作品である。登場する高校生たちが「本名」で呼ばれ、彼ら自身の身辺について語るモノローグのパート、それから、部活らしい空間を舞台に繰り広げられる一連の物語のパート。後者のパートでは、マークとトムという名前の兄弟が、マリーというひとりの女の子をめぐって争い、不誠実なマークによって、マリーが望まぬ妊娠をさせられてしまう。生まれた赤ん坊をめぐってマーク、マリー、そしてマリーの母のマーガレットの間でそれぞれの思惑が交錯し、事態はやがて不幸の連鎖を生み出していく。果たして、マリーは幸せをつかむことができるのか、というのが、ネタバレのない範囲での筋書きだろう。

 

 

さて、議論に戻る。作中で、ときどき挟まれるモノローグ、ふとんの間に挟まってお父さんの帰りを待つ「れいちゃん」の物語は、語っている本人の姿と相まって、どうしようもなく愛おしくて、そして、かわいらしかった。しかし、その後の話も含めて、舞台で語られたこと、モノローグの内容は、本当だろうかと疑問に思うひと、気になったひともあったかもしれない。けれど、私はそれが本当かどうかなんてことは、どうでもいいし、確かめるような無粋な真似はする必要がないと思っている。

 

むしろ「本当」と「作りごと」のあいだを往復しながら、そのどちらでもあり、どちらでもないような語り方が可能になること、私はそれこそが演劇の魔法だと思う。これは「作りごと」ですって方便があるから、語ることのできる物語がある、私たちが聞くことのできる物語がある。そういうコミュニケーションを可能にするのが演劇というメディアだと思う。

 

だから、私には作品全体もひとつの告白、集団のナラティブにもみえた。もちろん、マリーたちのナラティブは原型において「作りごと」だ。『イェヌーファ』を下敷きに書かれた物語である。しかし、それでも、マリーたちの物語と部員たちのモノローグは互いに響きあい、「作りごと」であるか「本当」であるかの壁をつきぬけて私たちに向かってきて、そこには、私たちはこういう現実を生きてるんだよ。私たちの隣にはこういうひとたちが暮らしてるんだよという、そういう声が確かに私たちに向けて響いていると思った。

 

私が何より感動したのは、そういう「作りごと」と「本当」の間をゆらゆらと揺らぎながら、その背後から圧倒的なリアルが立ち上がってきたというそのことだ。私は舞台上に登場したすべての登場人物が愛おしくてどうしようもない。クズのマークも含めて。

 

演劇は魔法ではない。だから、それ自体ですぐに現実を変えることはできない。

演劇は魔法ではない。だから、舞台が終われば残酷な現実が待っていることもある。

 

私の大好きな大森靖子*1 が、「音楽を捨てよ、そして音楽へ」という歌で次のように歌っている。(このタイトル自体、寺山修司へのオマージュでもある)

 

私は歌をうたっている

どういうことかわかるだろ

ノスタルジーに中指たてて

ファンタジーをはじめただけさ

全力でやって5年かかったし

やっとはじまったとこなんだ

音楽は魔法ではない

でも、音楽は

 

 音楽は魔法ではない。そう、演劇も魔法ではない。だから、それは「ノスタルジーに中指たてて」「ファンタジー」をはじめることなのかもしれない。ただ、大森靖子自身がさいごに「でも」と逆説をつけて展開するように…音楽は魔法でない、でも音楽は…

 

演劇も魔法でない、でも演劇は…

 

 

劇中、トムは自問する。どうすれば、自分たちはこの不幸の連鎖から、「呪い」から自由になれるんだろう。

 

それはもしかしたら、愛によってなのかもしれない。私はマリーの次のセリフが好きだ。

 

「ありがとう、トム。 いい? ママが言うからじゃないよ。
 あんたを前より好きやから、だからわたしはあんたと一緒におる」 

 

大好きとか、愛しているとはすぐには言わない。だからこそ、確からしい。あんたを前より好きやから、というセリフの何と意地らしく、愛らしいことか。どんなに甘い口説き文句より素敵なセリフだ。

 

もしかしたら、作品全編を貫いているのは愛、だったのかもしれないとも思う。演劇への愛。そしてどうしようもなく、だらしなく、性もなくて、自分勝手な人間という存在への愛。いま、ここに生きる人間への愛。

 

すてきな作品でした。舞台に関わった高校生たち、それから大人たちもお疲れさまでした!

*1:私のようなメンタリティの持ち主に愛されてやまないシンガソングライターである。椎名林檎鬼束ちひろCoccoの系譜。そのあたりが好きなひとは特に彼女の初期の作品を聴いてみて下さい。どハマりします。戸川純あたりも同じ括りだろうか