そっち側じゃなかった方のあたしへ

かわいい女の子は無口になるだけで心配される。

 

何かあったの、困ってる、大丈夫、手を貸そうか? その程度のことは別に気にならない。けれど、世の中にはたぶん同じことをしても、心配される側のひとと、大丈夫だろうと思われる側のひとがいるんだと、私は思う。

 

 

私は体質の問題からお酒が飲めないし、タバコも吸えない。だから、たとえば、お酒の席でひどく酔って周りから心配されるようなひとのことが時々うらやましくなってしまう。それ以外でだって、心配されるひとはいつでも気をまわしてもらえる。心配される人というのは気遣ってもらえるひとのことだといってもいい。気遣ってもらえるひとの反対は気遣ってもらえないひとだとして、気遣ってもらえないひとはどうして気遣ってもらえないのだろう。

 

ひとりで放っておいてもあのひとならやっていけそうだから。どうせ、翠さんならできるでしょう、みたいなことを言われたこともある。そう言われたとき、たぶん私は引きつった微笑みを浮かべていたと思う。それは優等生として評価されたことに対する優越と、自分が気遣われない側の人間であることへのやるせなさと、そんなものが入り混じった顔だ。(そもそも、私はそんなに優等生な訳でもないけど)

 

あたしは、あたしたちは、そっち側じゃなかったんだ。

 

心配される側じゃなくて、心配されない側。気遣われる側じゃなくて気遣われない側。もちろん、それで大丈夫なときは、いっぱいあるよ。むしろ、大抵はやり過ごすことができてきたから「されない」側に分類されたんだと思う。あんたはしっかりしているからね。お父さんいないんだから、あんたがお母さんをしっかり支えなきゃだめよ。そんな記憶の内にある様々なことばが、いちどきにあふれて私の心を灰色に塗りつぶしていく。

 

大丈夫じゃないときだってあるんだよ。言えないだけで。

さびしいときだってあるんだよ。表には出さないだけで。

 

そんなの甘えだよ。自分でそういうこと言えるのが大人でしょって、でも、君たちは「される」側のひとにはいつも心配して、気遣ってるじゃないか。その斜め後ろを何もかもわかったような顔をしながら、ひとりで歩く私たちの気持ちを考えたことがあるのか。

 

「されない」側の声は、所詮は優等生の転倒した承認欲求で、歪んだ声に過ぎないのかもしれない。けれど、私は、もっと心配されたいときがある、大丈夫にみえても大丈夫じゃないときがある、少なくとも、そう感じる私の心はころしたくないと思った。もし私がその心を無視してころしてしまったら、世界中のどこにも、私のさびしさやかなしみの居場所はなくなってしまうから。

 

そんなにツンケンしているようにみえるかな。そんなに難しいことばかり言っているかな。本当は誰よりも大人になることができていないのは私なのに。もっと、私のこともみてほしかった。

 

いつかのそっち側じゃなかった方のあたしへ

 

諦めないで心をころさずに暮らしていますか。自分が相手のことをみるより先に、誰かに自分のことをみてほしいと思うことは傲慢なんだろうか。

 

私は表現を通じて、そんな大丈夫じゃなかったときのあの日の私を救い出したい。