声にならないものを声にする--地方と演劇(1)

「地方で演劇をすること」について考えます。長文です。

 

私は、ふだん東京に暮らしているので、東京の子どもたちと関わることが多いんだけど、彼らのことをみていて、環境としては恵まれているなあ、と思わずにはいられないことが多い。演劇だって、面白い公演を良心的な価格で観ることもできるし、小中高生とコラボレーションしてくれる、たくさんの、きちんとしたアーティストたちがいる。実際彼らとのコラボレーションによって、興味深い作品が沢山生み出されていっている。

 

けれど、それがもし地方だったら?

 

もしかしたら、たとえば、中高生にとっては、演劇部だけが唯一演劇とつながることのできる場所かもしれない。演劇を観るためには交通費をかけて、東京や大阪まで足を運ばないといけない。それから、仮に高校を卒業した後、演劇の専門的な技能を身につけたかったとしても地元では進学する先がない。やっぱり、東京/大阪に行かないと。でも、行くためには沢山のお金が必要で…演劇なんて仕事になるかもわからないし…と、私たちの知らないところで、決して表にでは出てくることのない数々の悲しい断念が生じているかもしれないんだ。

 

このことは誰もが気づいていて、にも関わらず、結構多くの場合、沈黙されていることだけれど、いま、日本には歴然と文化的格差がある。東京では毎日観劇に足を運んでもすべては観られないであろう本数の舞台が上演され、一方、地方ではそもそも地域に根ざした劇団自体が存在しなかったりする。これは美術についても、音楽についても、たぶん同じ状況にあるといっていい。

 

 

世田谷パブリックシアターで開催されたレクチャー『地域で展開する市民参加演劇プロジェクト』に参加してきた。東京も含めた各地域(三重、福井、鳥取、愛知、青森、東京(世田谷))の(主に)公共ホールで行われている市民参加(型)演劇プロジェクトの事例を紹介し、その課題と今後についてディスカッションするような場で、レクチャーというより、フォーラムといったほうがよかったかもしれない。

 

参加して私が考えたことをいくつか書いておく。

 

 

大前提として、私は優れた作品は、それがどのような場所で、どのような方法で上演されたものであっても、感動を呼ぶものだと思っている。このことを踏まえた上で、ここから先のことは読んでほしい。

 

(1)地方は東京に対抗すべきなのか

 

ひとつのマッチョな事例として、「思い出づくりはお断り」のキャッチコピーで名の知れた演出家と劇団に委託し、25歳以下の若者に劇団をつくらせるという取り組みが紹介されていた。気概にあふれた、すばらしい挑戦だと思う。成功してほしいし、多くの演劇人がそこから育っていったらいいなと思う。けれども、一方で少し思うのは、そこで、いま地方がすべきこと、できることというのは、東京や大阪のカルチャーシーンでもてはやされ、メディアにも盛んに紹介されるような、いわば「大文字の演劇」みたいなものに対抗していくことなのかってことだ。

 

地域に眠っている文化的な財産--これには当然、心ある若者の存在も含まれる--を掘り起こしていくということはすごくおもしろいことだけれど、そのとき、その手つきをどのようなものとするのか、ということは考える余地のある問題だと思う。

 

「大文字の演劇」に対抗して行くということは、正攻法なのかもしれないけれど、一方でそれは消耗戦なだけではないかという直観もある。つまり、資本や新しさという面だけでいえば、絶対に文化の領域だけではどうしようもない部分があって、東京や大阪というのはやっぱり圧倒的なのだ。そこに負けない「大文字の演劇」を地方につくりだそうとする努力は敬意を払うに値するものだけれど、でも、ものすごく多くのひとたちが疲弊してしまいそうな気もするし、その果てに待っているものが何なのだろう、という疑問もある。

 

それでは、地方で(市民参加)演劇をおこなうというとき、そこではどんな演劇が望まれたらいいのだろう。どんな演劇が本当にそこで暮らすひとを豊かにして、そして、それ自体を持続させていくことができるんだろう。

 

(2)市民参加演劇は誰のものか

 

私がとても気になって、その場では指摘できなかったことがひとつあって、それは、ある公共ホールの取り組みの紹介の中で、市民参加演劇の実施の目的のひとつに「郷土愛を培うこと」というのを挙げていたことへの疑問だ。演劇、文化の実践の目的として無前提に郷土愛*1 の涵養みたいなことをいっていいのだろうかと私はちょっと疑問に思った。

 

演劇は道具じゃない。ふるさとは愛さなくちゃいけないものじゃない。

 

むしろ、愛せないふるさとのいま、疲弊した国道沿いのロードサイドの風景--巨大なイオンとパチンコ屋、それからヤマダ電機と全国チェーンのファミレスだけが並んでいるような--も含めて、そういう、これまで声にすることさえできなかった声をすくいとっていくこと、それこそが、たとえば市民参加演劇にできることじゃないのか。

 

市民参加演劇を広くアートの文脈で捉えるならば、それはいわゆるコミュニティアート、地域アートの実践のひとつと考えることができて、それを支える思想としては、ひとつ、日本においては90年代以降展開された、ブリオーというキュレーターによる「関係性の美学」というコンセプトがあげられるだろう。

 

「関係性の美学」をひとことで説明することはむつかしいのだけれど、これまでの作品中心主義的なアートに対して、作品のできごと性であるとか、相互関係性、文脈性みたいなものを積極的に評価しようとする一連のアートにおける立場だと思ってもらって概ねいいように私は思う。

 

従来とは異なった、できごとや関係を重視する「関係性の美学」の思想に導かれて、いまでは全国各地で地域アートのイベントが行われていて、それらの中には正直首をかしげざるをえないようなものもある。それはたとえば、いつのまにか、アートが単なる地域振興の道具とされて、観光資源にされてしまうような場合だったり、まるでその地域の歴史や暮らしを無視したアーティストによる実践だったりする。

 

特に美術の文脈では、いまではすっかり地域アートは手垢にまみれたコンセプトになってしまった。このような状況について、批評家の藤田直哉が対談で次のような発言をしている。

 

かつて商業主義のカウンターとしてあった「関係性」への希求が、いまやマネタイズの手法として主流化し、大衆化している状況です(中略)かつては批判性を持って輝いてた理念が、次の時代では意義を失ったものとして自走してしまう*2

 

説明を付け加える必要もないだろう。議論をもどす。美術の領域では既に「関係性の美学」は随分と陳腐化して、すっかり商業主義や体制と癒着したものになってしまった。このままでは市民参加演劇もやがてそうなるのではないか、という強い危惧を私はもっている。

 

私は演劇の一つのあり方とは、現実を距離をもって取り出して違ったようにみせる作業、それから、これまで声にされてこなかったものを声にしていく作業に他ならないと考えている。だから、たとえば、地方に暮らす専業主婦のひとたちが自分たちでライフヒストリーを演劇にしていくというプロジェクトなどは、とてもいい事例だと思った。

 

市民参加演劇において、たとえば、公式にみとめられたその地域の歴史をなぞること、大文字の歴史を繰り返すことに私はあまり意味を感じない。なぜなら、それはこれまでも正統的な声として繰り返し、語られてきたものだから。むしろ、そのようなものではない、地方で暮らすこと、地方で生きることのしんどさや閉塞感も含めて、それらの非正統的な声を、批判精神をもって響かせていくこと、それこそが市民参加演劇で、できることだし、みせるべきことじゃないだろうか。

 

結局、演劇も含めた文化、カルチャーというものが何なのかということに議論は向かっていく感じもする。このことについて、先に紹介したのと同じ対談で、美学者の星野太が次のようなことをいっている。

 

「ネイチャー」という言葉には、(いわゆる「自然」にかぎらず)あらかじめ与えられた「本性」的な条件や所与性を含意するようなところがありますよね。そういう「ネイチャー」を変えていくものとして、「カルチャー」があるという言い方ができるのではないか。「カルチャー」もやはり政治や経済と無縁でいることはできませんが、しかしそれゆえにこそ、政治的・経済的なものに対して有効な異議申し立てを行なうことができるとも言える*3

 

 現にあるもの、いま、そこにある地方の疲弊に対して、それをごまかすような体制の声を反復することはアートでも何でもない。与えられたもの、ネイチャー、を変えていくもの、いま、私たちはどうしようもないところに暮らしていて、そこにはいかんともしがたい生活がある。毎日しんどい。辛い。そんなすべてを含み入れて、それを表現にのせ、かつ、ただ追認するのではなくて、乗り越えていこうとする営み、それこそがカルチャー、文化であり、そして演劇にできることではないんだろうか。

 

最後に少しだけ脱線すると、だから、私は学校演劇においてもいつでも典型的な高校生の声をききたいとは少しも思っていない。むしろ、非典型的で、非主流的なひとたちの歪で、しんどくて、でも笑えるような毎日が舞台の上で展開されたとき、私はそれに対して思わず拍手をしてしまう。

 

声にならないものを声にすること、演劇の可能性。

 

*1:私は東京の郊外の出身で、ものすごく地元に対する嫌悪があるから、郷土愛みたいなものにアレルギーがあるということも含みおいてほしい

*2:星野太+藤田直哉「まちづくりと「地域アート」--「関係性の美学」の日本的文脈」 P57(藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』堀之内出版、2016 P45-)

*3:星野太+藤田直哉「まちづくりと「地域アート」--「関係性の美学」の日本的文脈」 P79(藤田直哉編・著『地域アート 美学/制度/日本』堀之内出版、2016 P45-)