ベテルギウスは、いつでも--写真を考える(1)

冬の大三角形の一角をなしているオリオン座のベテルギウスは地球からおよそ642光年の距離にあるとされる。だから、ベテルギウスから発せられた光は孤独な旅を642年間経て、私たちのもとへ静かに注いでいるともいえるし、どんなに目をこらしても、私たちがみることのできるベテルギウスは642年前のそれだともいえる。私たちに〈いま〉のベテルギウスをみることは絶対にできない。そんなことを考えていると、少しだけ切ない気持ちになるのは私だけだろうか。

 

 

高田馬場にあるギャラリー Alt Medium で今日まで開催された写真家 篠田優さんの個展「写真へのメモランダム」で「みる・きく・つくる」と題した鑑賞と対話、そして表現のための小さなワークショップをさせてもらった。決して多くの参加者がいたわけではないけれど、私としては満足のいく時間をもつことができた。

これはロラン・バルトあたりも確か異なった書き方で述べていることだけれど、たぶん写真には、ひとつの無垢さへの祈りのような思いが込められている。

 

私たちは、言語という記号を操作して日常生活をやり過ごしている。これは林檎で、その隣には木箱がある、と思うことで私たちの生活世界は安定させられているのだ。そのように記号を用いてコミュニケーションすることは私たちの生にとって不可欠なことである。そうしなければ、私たちの世界は破綻してしまうだろうから。

 

もし、記号がなければ、ひとは、その都度そのもの自体について表現を尽くさなければならなくなってしまう(それにそもそも表現を尽くすということさえ、できるのか、だいぶあやしい)。何もかもが瑞々しさを湛えて、しかし、私たちにはどうにも語ることのできない仕方であらわれる世界というのは、あまり想像して気持ちのよいもではない(少なくとも私にとっては、ということだけれど)

 

でも、ひとは誰かや何かを記号にしたくないときがある。「林檎」という記号は、赤くて、丸くて、かじると甘い味の広がる、あの木の実のことをまずはだいたい指している。目の前の他ならぬ、この「林檎」だけを指しているわけではない。「少女」という記号は同じように、ある精神性を有している、ある年代の女性のことを大抵は指しており、目の前の彼女のことだけをいっているものではない。

 

ある切実さをもって、ものやひとが迫ってくることがある。それはそのものがそのものでしかないような仕方で。そのひとがそのひとでしかないような仕方で。そのときひとは、そのものを「涙」とか、「恋人」とか、名付けることをやめてしまいたくなる。私にとって、それらはもっと瑞々しくて、何より交換不能なものだからだ(記号というのは交換できるものが他にも存在しているということを前提としている。「林檎」という記号が成立しているのは、あの「林檎」も、この「林檎」も存在するからだ)どうしたら、そのひとのすべてを、そのもののすべてをまるごと一切損ねることなく、私たちは語ること、考えること、のこすことができるだろうか。

 

そのときにおそらく登場するのが写真だ。このことは本当は随分とあやしい--つまり、たとえば、デジタルイメージというのは結局のところ、0と1という記号に還元されてしまうのだけれど--それでも、私たちは、写真というメディアは瑞々しい世界をそのままに写しとることができると信じている。そのもののそのままの姿が変更を被ることなく、記号化されることなく、あらわされていると信じている。

 

〈あなた〉の純粋さを損ねることなく、私のもとへもたらすメディアとして写真は存在してきたし、そのような祈りによって写真というメディアはどうも成立しているといっていいように思われる。

 

けれど、そのとき、切ないのは(このことを切ないと捉えるかはひとによるかもしれない)写真に写る〈あなた〉はいつでも過去の〈あなた〉であるということだ。何を当たり前のことを、と思うかもしれない。でも、ちょっと待ってほしい。私たちは写真をみたとき、そこに写った人がありありと現に存在しているかのように感じることがあるのではないだろうか。けれど、それはあくまでも「かのように」であって、写真の本質は、むしろそれが過去によって構成されているという点にある。これを支える理屈はこの上なく単純だ。写真というのはフィルム、ないしセンサーに光が感光することでイメージが生成される。そして、このとき、ものの間には距離があって、光にはいつでも速度があるということを私たちは考えないといけない。つまり、そのものが存在する今よりも、光が届くのは、たとえ記録できないほど僅かではあっても少し後のこと、つまり構成される写真というのは、いつでも、そのものの僅かに過去の姿なのだ。

 

〈あなた〉のその瑞々しさを、他ならぬ〈あなた〉であることを、何とか写真というメディアにおいて残したい。それは純粋さへの志向であり、ある無垢な認識の可能性に対する祈りでもある。写真はそうして写される。けれど、そこに写る〈あなた〉は、いつでも今の〈あなた〉ではない、少し前の〈あなた〉しか写真は写すことができないんだ。

 

写真がもし愛なのだとしたら、その愛はとても切ない。

 

なぜなら、愛しているからひとは写真を撮るのに、写真に撮られたそれはもう過去で、今ではすでにないものだからだ。永遠に私は〈あなた〉の過去のイメージしか手にすることができない。

 

そして写真は静止している。そこにおさめられているのは静止させられた過去だ。だから、私たちはときどき写真において、いまはもうない静止した過去と対面することがある。様々な意味で、いまはもうない〈あなた〉、いまはもうない〈あの街〉、私たちはそれをみることはできる。けれど、決してそれに「いま」ふれることはできない。

 

様々なことが話し合われたワークショップだったのだけれど、そんなことを考えたとき、私はもう、たまらない気持ちになってしまって、今日の個人的なまとめは「写真は切ない」だと思ってしまった。

 

ワークショップでは、さいごにみんなに短い文章を書いてもらった。それはその日の内容をふりかえるためでもあるし、作品をみせてくださった作家の方への応答の気持ちをかたちにするという行為だとも思っている。ただ話すということに対して、短い文章を書くという作業は思考に対する整流器のように作用してくれて、伝えたいことだけをシャープにしてくれる。

 

この文章もそんなふうになっていればいいのだけれど。

 

恋人の/恋人との写真が欲しいという気持ちはとても普遍的な思いだと思う。けれど、それが写真になったとき、たとえ、カメラがデジタルカメラでその場で画像が再生できたとしても、そこには絶対に現在は写らない。「今はもうない」ものが写るだけで、このことは後になってから、しみじみと気づかされたり、考えさせられたりする(ときどきは、写真を撮っておけばよかったなという仕方で反省させられることもある)。

 

スマートフォンで簡単に写真が撮れるようになって、加工を施すのも当たり前になった今、私たちにとって、もはや写真は生活の一部で、それ自体がかえりみられることなんて殆どないのかもしれない。けれど、写真について丁寧に考えはじめると、私たちの「みる」ということにまつわる色々なふしぎが明らかになってくるように思われる。

 

夜空を見上げる。冬の大三角形ベテルギウスは3つの星の中で私たちから一番遠い。いま、私たちが生きている今、ベテルギウスが発した光は642年後の地球に届く。