読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

現在進行形/プロセスとしての演劇のために(0)

現在の商業演劇を下支えしている層というのが、殆ど中高年であって、彼らが抜けてしまった後、日本の演劇業界、とりわけ、採算性を視野にいれなければいけない演劇業界がどのように対処するのかという問題は考えられなければならないだろう、ということは以前に少し書いた。

 

実際にかなり動員力が高い方だと思われる、NODA・MAPでさえ、観に足を運んでみると、それにはチケット代が高いからということもあるのだろうけれど、客席の多くはおそらくは遊眠社時代からのファン層だったと思われるひとたちによって占められている。

 

では、演劇はどうしたらいいのか。そんなことをずっと考えている気がする。ただ、具体的な作品抜きに、演劇そのものを語ろうとすることは危険なことで、空疎なことばにまみれてしまう可能性も高いから、できるだけ、このメモはことばだけが一人歩きしないように書きたいなと思っている。

 

 Twitterで相互フォローさせてもらっているおともだちが、(私には、ある意味で)面白いツイートをよく意味がわからないといって、引用RTしていたのだけれど、ある評論家の言になる、その内容のだいたいを再現するならば、こんな感じになる。

 

演劇には表層と背景があり、表層において上演がなされる芸術であるけれど、ダンス、音楽には演じるという発想がないから、表層と背景に分化することはない。すべてが表層であり、あるいは背景でもありうるのだ。だから、演劇とダンス、音楽にはちがいがあるのだ。(これは正確な引用ではない。原文がわかりにくかったため、私が再構成した)

 

書いていた評論家の人は、ざっくりと経歴をみた感じ、コンテポラリーダンスに強い評論家の方のようだったが、私にはこの主張は前後の文脈がわからないので断定することはできないものの、随分と古典的な理解にも思われた。というのは、特に現在、演劇の世界で、演じるということー表層と、そうでないプロセスー背景として二分法的に区別をつけて、作品を理解するということは少なくなっているように思われて、この区別が強く意識されていたのはある時期の西ヨーロッパにおける近代演劇に限ってのことのようにも思われるからだ(それは、たぶん西ヨーロッパの劇場文化とも関係している)。

 

これは読んで下さっている、みなさんの考えもぜひ知りたいところなのだけれど、私は現在の演劇の展開は、むしろ表層と背景がないまぜになるようなあり方、すなわち、演じることと演じるまでのプロセスが一体となり、区別できないようなあり方をすることが多くなっているし(だからこそ、パフォーマンスの経験なるものが分析や考察の対象になるようになったわけである)、むしろ、そちらにこそ、演劇の現代的展開、限界を迎えつつある近代演劇に対するオルタナティブを感じるのだけれど、どうなのだろう。

 

散々使い古された謂いではあるけれど、演劇にはふたつの観点からの用語法があって、それが Drama と Theatre の語の使い分けである。プロセス志向で経験を重視する Drama 的立場に対して、Theatreは上演志向で作品主義的な志向をもつ概念であると私は大まかには理解している*1 この区分のたすけをかりるならば、Drama的性格をもった作品の再評価されるようになってきた。Drama的な観点から制作された作品が増えてきたということだろう。

 

既に飽和しつつあることも事実ではあろうけれど、経験がひとつの作品になりうるのだということは20世紀以降における現代芸術の獲得した収穫のひとつだ。受容美学に対する注目と共に、制作者と鑑賞者の相互行為に着眼して、あるいはそもそもその区分さえも流動化させていくような「できごと」としての芸術作品は大きな流行をみてきて、それはたとえば、現在でも続けられているパフォーマンスアートや、あるいは、90年代以降のサイト・スペシフィックな発想と結びついたコミュニティアートのようなものへと、その展開をみてとることができるだろう。

 

ともあれ、そもそも、演劇は時間的な芸術であり、協働性、身体性を伴う芸術でもある。だからこそ、それを文学の延長線上でだけ議論するのには所詮限界があったのだ。そして、舞台上の経験だけを主題化して議論の対象にするというのも本来は歪なことである。私たちは演劇について、より真摯に考えようとするならば、たとえ、シェクナーがあらわれなかったとしても、いつか経験としての上演という概念を採用せざるを得なかっただろう。

 

そして、このとき、その上演の経験のうちで出演者と観客がそれぞれ何を体験し、何を被り、どのように変容していくのか、そういったことが十分に論じられなくてはいけないのに、残念ながら、国内の演劇批評は未だにレポートとしての印象批評か、個別の作品や作家に対する内在的な批評の圏域にだけ留まっているようにだけしか私には思えないことがあって、これは大変に残念なことである。

 

脱線してしまった。したがって、演劇のオルタナティブとしての、プロセスを重視した、というよりもプロセスと作品が一体にして不可分であり、ときとしてサイト・スペシフィックであるような現代演劇というのは、21世紀における演劇のオルタナティブであると同時に、演劇の正統的継承者でもあるように私は思うのだ。

 

ともあれ、それらの全てがうまくいっているのか、また無批判に肯定してしまって構わないのかとった問題は残るし、それでも尚、作品としての上演や劇場というブラックボックス(あるいはホワイトキューブ)にこだわり続けたい演劇人や劇団も存在することだろう(それはそれで勿論構わないのだ)、むしろ、彼らが今後どのようなかたちで生き残りをかけていくのか、ということのほうが、ジャーナリスティックには興味深い問題であるのかもしれない。しかし、私の関心は、どちらかといえば、そうでないもの、つまり従来の西欧中心の近代的な演劇を解きほぐし、再構築していくような作品にこそ可能性をみているし、関心も寄せている。

 

では、そのような作品群の特徴や課題はなんなのか、そして具体的に論じるならば、どのような論じ方が可能になるのか、ということについてはまた別の原稿で書くことにする。

 

忘れないうちに、とりあえず考えていることのメモ。

*1:このような2つの概念の使い分けについては、私はHelen Nicolsonによる区分を念頭に置いている。詳細は彼女の著書 Applied Drama などを参照してほしい