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ふたば未来学園高等学校『数直線』をみた

アトリエヘリコプターでふたば未来学園高等学校演劇部の作品「数直線」をみた。

 

県立ふたば未来学園高等学校は2015年に開校したばかりの新設の中高一貫校だという。学校のパンフレットには雄弁な文字がおどる。「この地から未来創造」。でも、なんて皮肉な名前なんだろうって私は思ってしまう。「未来」、果たして日本で今捨てられようと、忘れられようとしている土地の学校に「未来」なんて名前を冠するのは、皮肉以外の何物でもないじゃないか、とも言いたくなる。

さて、作品「数直線」。過剰なセンチメントを排除した冷静なつくりで大きな盛り上がりこそないものの丁寧な作劇に好印象をもった。かわいそうで、惨めで弱いだけの被災者像でもなく、過剰に前向きでヒロイックな被災者像でもない、使い古された言葉だけれど、等身大の被災者たちの姿がそこにあった。

 

作品には物語らしい物語はない。「サクラ」という女の子が東京の普連土学園に通えなくなって、福島の「ふたば未来学園」に転校してきて、そこでいくつかのことが起こるらしい、という以上の筋書きは特にない。ちなみにお祈りの時間、居眠りをしそうになったり、どうしていつもいつも祈ってばかりいるんだ、という「サクラ」の抗議は人生のある時期をミッションスクール、それもシスターや神父が身近にいる場所で暮らしたことのある、私としてはよくわかるものだった。とはいえ、いまの私には「祈り」や「信仰」の意味、可能性についても少しだけだけれど考えるところはあるのだが。ともあれ、脱線してしまった。繰り返しになるが、この作品には「サクラ」が転校してきて、そこで友人たちに出会っていくということ以外、明確な筋書きはない。「サクラ」も、そもそもキャストの実名をカタカナ表記にしただけである。

 

残りの時間はいくつかのゲームのようなものが舞台上で演じられていく。たとえば、何にでも語尾に「ありがとう」をつける「ありがとう」ゲーム、爆音で音楽を聴きながらの伝言ゲーム。境界線を引いて、二択でどちらかの側にわかれるゲーム。ゲーム自体はどれも他愛ないものだ。けれども、その他愛なさがゆえに、間に挟まれる「現実」の断片は私たちを鋭く突き刺し、問い質しの場に立たせる。

 

「おいしい役をありがとう」…「地震津波、ありがとう」、「原発事故、ありがとう」。殆ど表情を崩さずに怒りをみせるわけでも、喜びをみせるわけでもなく、高校生のキャストたちはこのセリフを発した。だからこそ放たれた打撃は重い。背後に積み重なった怒りとやり場のない思いは深い。それ以外でも作品ではちょっとしたモチーフとして「フクシマ菌」が登場したり、「かえれる」「かえれない」で舞台上が二分されたりする。

 

そして、その合間に挟まれるモノローグ。国のお偉いさんがきて、プラモデルを買いに行けなかった男の子の話。東京で被災して倒れたマネキンが死体のようにみえた話。

 

基本的にこの作品はアンチ・ドラマを貫いてつくられていると私は理解した。「サクラ」の物語は、物語であって、物語でない。作品のためにひかれた補助線だ。しかし、私はそれこそがすばらしいことだと思った。どれだけ、周りの大人からの指導があったのか、高校生だけで作ったのか、私に知るすべはない。しかし、この震災後のフクシマで生きるということをドラマにしなかったこと、このことは無条件に評価できることだと私は思ったし、その点においてだけでも拍手を送りたくなった。

 

何を書いているのか、よくわからないかもしれない。つまり、私が書きたいのはこういうことだ。

 

ドラマはときに都合よく起承転結を迎え、観客にカタルシスをもたらす。ところが、フクシマはカタルシスなど迎えられるわけがない。フクシマにあるのは、3.11からの日々と、そして今日からまた連なっていく毎日だ。そこで繰り広げられる人間模様も当然のことながら一筋縄ではいかない。自分の被災の体験について語れるような生徒もいれば、語ることの難しい生徒もいるだろう。誰かが中心、誰かが主人公ということでない、全員がそれぞれの物語を生きていて、その物語はところどころほつれたり、整合性をなくしていたり、断片的であったりする。けど、生きている。生きているとはそういうことなのだ。生きていることの中にはもちろん劇的な瞬間もある。けれども、生きていること自体は残念ながらひとつの劇ではない。劇のように美しい人生はありえるかもしれないけれど、それは、あくまでも「劇のように」というだけだ。

 

もしかしたら、震災後の生活、そして、震災についてもっとウェルメイドな物語をつくることもできたかもしれない。たとえば、東京から傷ついて福島へやってきた少女が福島の高校生たちと交流を深め、それぞれの傷に気づき、お互い助け合って生きていくことを選ぶ。もちろん、この作品を、そういう物語であったと理解することもできるだろう。

 

しかし、私はそのような物語理解の枠組みからはこぼれおちる無数の細部、そして断片こそ、この作品の肝であると考えた。被災者の生を統一的な物語に収斂させない。不幸であることも、幸福であることも拒否すること。ただ、いま、ここを生きているのだ、ということ、生きてきたのだという風景をことばにのせて、身体で演じて届けるということ。

 

復興の美しい物語でも、悲惨な被災者の物語でも、そのどちらでもない、ドラマであること自体を断念し、拒絶したこと、それこそがこの作品の意義であり、価値であったのではないだろうか。

 

作品の最後でキャストたちは舞台上に数直線を引く。いま、自分が立っているのは、2011.3.11から2017.2.5までの間のどこか。それぞれのキャストがそれぞれの場所に立つ。そして、短いコメントが語られる。それだけで十分だと思った。ここで、当たり前すぎるほどに当たり前のことに私たちは改めて気付かされるのだ。それは「被災者」という抽象的な存在はいないのだということ、ひとりひとりの物語をもって、ひとりひとりの感情と精神をもって生きるひとがそこに暮らしていて、結果として彼らが震災の「被災者」と呼ばれるようになったのだということ。

 

ただ、さいごにひとつだけ私が気になった点があって、それだけ書いて終わりにする。

 

作品は震災に対する様々な感じ方、様々な距離感を巧みに描いてみせた。しかし、一貫して震災という経験自体がネガティブなものの象徴であるということは揺るがなかった。もちろん、私も震災をありがたいと感じたことは一度もない。しかし、私自身は震災から少し経った南相馬近辺の海岸線沿いに自分自身が立ったとき、何もかもがおしながされ、あたり一面に道路以外の何も存在しないその風景に、鳥肌を立たせつつも、思わず「美しい」と感じてしまったそういう感覚、そういうものは取り上げてもらえないのだろうか。

 

すごくいやな言い方をする。とんでもなく無責任で不謹慎な書き方になるけれど、しかし、どこかで震災によって何かが変わるのではないか、そして自分のどうしようもない人生に決定的に変化がおとずれるのではないか、そういう感じ方をしたひともまたあったのではないだろうか。そういうひとの存在を想定することは一体罪なのだろうか?(その後それらの思いは勿論裏切られていく)。



そういう最も震災に関する言説、整った物語としては語られにくいような誰かの断片、気持ちまでも舞台の上にのせることができたならば、整理するのは大変そうだけれど、作品はより深みをますのではないかと私は考えた。

 

現時点の内容でももちろん、作品はよくできたものであり、十分に一定以上の水準をクリアしているものだろう。しかし、新聞やメディアが好んで取り上げるようなものだけでない、その枠に収まりきらない毒を、お行儀の悪さや逸脱も私はどこかでみてみたいと思ってしまうのだ。

 

ともあれ、改めて私自身、震災について考えさせられた秀作だった。キャストのみなさん、スタッフのみなさん、お疲れさまでした。