いつまでも独身でいるつもり?

ブログのトップに広告が表示されて忌々しいと思う。

そうだ、90日以上も記事を書かないでいたのだ。

 

私の日常には変化もあるし、変化していないこともある。Twitterは半ば何かに溺れかけて必死に空気を吸うために生き物が水底から水面に浮上するように隙間をみつけては更新していたのだけれど、ブログとなると、まとまった記事を書かなければならない、という気持ちばかりが先立ってしまって、なかなか筆をとろうという気持ちになれなかったのだ。演劇や教育に関わる研究日誌と化しているこのブログも、もとは身辺雑記をつけるため、そして書くということを習慣づけるためにはじめたものだった。だから、気軽な気持ちで書く。気軽な気持ちでかけることでもないのだけれど。

 

結婚である。といっても、私がしたとか、やめたとか、別れたとか、そういう話ではない。むしろ、そうではないことについて書いてみたいのだ。

 

 

お盆休みに、昨年結婚したばかりの年来の友だちの家へ半ば押しかけるように遊びにいった。

 

「帰省」というほど、生まれた街が遠いわけでもなく、帰ったところで母親から嫌味をいわれるだけの結果が目にみえているから、実家には帰らずにいて、仕事だけが休みになって、ぽっかりと宙に浮いた時間、人恋しい気持ちがなかったといえば、嘘になる。

 

友だちの家は、程よく生活の匂いが漂いつつも、きれいに整頓されており、飾り棚には雑貨が飾られていて絵に描いたような素敵な暮らしである。

 

そんな型どおりのことばをいうつもりはなかったのだけれど、思わず、帰りがけに「新婚はいいね」という月並みな文句が口をついて、友だちから、そればかりひとから言われるけれど、結婚とはそんなに容易いものでもない、と叱られた。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして、そんなことばが口に出たのだろうと思う。

 

 

ふたりの暮らす家からひとりの部屋へ帰った夜はいつだって淋しい。

 

ふと自分の部屋にやけに音がないことに注意がまわって、明日の朝にゴミ出しするのも、お手洗いのきれかけた芳香剤を交換するのも、シンクのふちにたまった水垢を掃除するのも、何だって私ひとりでしなくてはいけないことを知る。一人暮らしをはじめてから、今年で10年ほどになるから、そのどの行為もが当たり前になっているはずなのだけれど、ふっと、そんなことが必ずしも当たり前でない場所にいって、自分の行なっていることが「ふつう」とは限らないのだということに気づかされる。

 

時間は前後するが、ゴールデンウィークに知人とタイ料理を食べに行った。知人は現代演劇の研究をしている。ひとしきり、演劇のこと、研究のことを話し尽くすと、どちらからともなく持ち上がるのが、身辺をめぐる話題である。年長の知人はため息をつきながらいっていた。

 

「自分でそちら側を選んだつもりはないのに、いつの間にか未婚という側にさせられて、友だちと話をするときには、気がつけば独身代表のような扱いを受けることがある」

 

そのときは、あまりぴんとこなかったのだけれど、少し時間を置いたいま、そのことの意味が痛いほどわかる。私たちは何も選んでいない。何も選んでこなかったのに、いつの間にか、結婚をしていない「側」というひとつの立場に押し込められている。独身というレッテルを貼られている。もちろん、自分から意思をもって結婚をしないという立場を貫いているひともいるだろう。そういうひとならば、確かに彼女ないし彼は結婚をしていない「側」、あるいは独身という立場でもあるのだろう。しかし、私と知人は別に結婚をしない、ということを意思的に選択した結果、いま、ここに存在しているのではない。私たちにとっては当たり前に日々を重ねてきた結果、結婚という現実には舵を切らなかったという、それだけのことだ。

 

 

そんなことを考えていると、私たちの世界には選んでもいないのに、選択の結果であるかのように語られ、押しつけられるカテゴリが思いのほか、たくさん、存在することに気がつかされる。性別、国籍、出身地、そんなものは全部「私」の選択を経て、残った結果ではない。

 

にも関わらず、あたかもそれらの属性は当事者の選択の結果であり、まるでその結果自体に罪があるかのように非難するひとがある。風当たりが強くなることがある。おかしなことだと思う。朝鮮籍であることも、部落の出身であることも、女性として生まれたこと、あるいは女性として生きることも、そのどれもが意思的にある段階で選び取られるようなものではない。気がつけば、そうであったというところのものだ。気がつけば、そうであったところのものについて、いわれのない、非難や罵声を浴びせかけてくる人がいる。自分ではどうしようもない自分の一部に対してヘイトを投げかける人がいる。これはつらい。差別ということの原風景のひとつはここにあるのではないだろうか。

 

とはいえ、注意して欲しいことは、私は、だからといって合理的な理由があったからといって、あるいはそれが何らかの選択の結果であったからといって、そのことが差別を正当化する理由になるとは少しも思っていない、ということも書き添えておこう。何であれ、あるひとがそのひととして生きているということを象る何かについて外部から一方的に加えられる悪意は看過しがたいものだ。

 

そんなことをぐるぐると考えていると、結婚をめぐる私たちもまだまだ自由でないことに気がつかされる。結婚をしていないことについて、何かを語られることはあっても、結婚をしていることが何かの選択の結果であるかのように語られることや、何かに抵抗していることであるかのように語られることは、日本社会においては少ないからだ。結婚をしない、ということを選択すること(そして、それは必ずしも選択ではないことについては、ここまでに述べたとおりである)についての風当たりはそれなりに強いが、結婚をする、ということは、それが選択であるということが気づかれないくらいに自然なことのひとつにみなされている。(読み直していて、そうとも限らないかもしれないと思い直した。とりわけ、当事者にとっては結婚するという選択はやはり「大冒険」であり、自然だと片付けるのは乱暴だろう。とはいえ、結婚は概ね歓迎されるのに対して、結婚しないことは概ね(とりわけ田舎では)眉をひそめられる対象であることに相違はない。)それは結婚をしていないひと、結婚をしないひとがマイノリティだからだろうか。

 

差別が差別として暴力的に有効に機能するためには、基本的に差別を加えられる対象がマイノリティである必要がある。だからこそ、差別を解消するためにはマイノリティを、マイノリティというポジションから、ダイバーシティーという社会全体の状況へと解き放つ必要があるのだ。誰も住居に住む人に対して奇異の目を向け、差別することはない。それは、そのことがこの社会においてはマジョリティであるからだ。一方で野宿者はホームレスとよばれ、あるいは浮浪者と蔑まされ、暴力の矛先になったり、差別を加えられたり、あるいは社会から不可視化されたりする。彼らがマイノリティであるからである。さらにいえば、野宿者が社会的な発言権をあまり有さないこと、社会的に「弱い」立場に置かれていることも暴力を加速させる。均質性を志向しつつ、絶えず自らに内在する暴力性を向ける矛先をどこかに探している社会という有機体は、そんなマイノリティを見逃さず、すかさず、排除の対象に仕立て上げようとする。この排除の過程で加えられる、さまざまな圧力が差別と呼ばれる代物なのである。

 

もちろん、このとき、マイノリティは量的なマイノリティであるだけではない、質的なマイノリティも差別の矛先になりうる。近代以降の「健常」な男性中心主義的の社会にとって、女性や障がい者は仮に数が同じ程度であったり、多かったりしても、社会にとってのメインストリームでない以上、質的なマイノリティとして、社会という土俵からの排除の圧力を被ることに、すなわち、差別を加えられることになる。

 

だとすれば、結婚をしていない/しないということは、この社会にとって残念ながら、マイノリティであることを意味し、そして、その結果として、そこには差別が加えられているのだと結論するしかないのだろうか。差別とまでは言えないにせよ、そこに有形無形の圧力が加えられていることは確からしいことに思われる。

 

私は何かを選ぶことも、選ばないことも、ひとしくその価値が尊重され、互いに敬意をもって受け入れられるような社会が到来することを望む。そのためには私の中にある「新婚って楽しいでしょ」という結婚に対するステレオタイプな眼差しも、気がつけば、独身の代表として扱われるようになったという知人のエピソードもそのどちらもが反省され、改められなければならないだろう。

 

「改められなければならないだろう」、いかにも教科書的な書きぶりである。しかし、どうすれば、改まるのか。どうすれば、実家の母親を、田舎の噂好きのあの女性たちを納得させることができるのか。結婚はあまりに社会にとっての「当たり前」であり続けてきた。それゆえに、その相対化をなすことは、とてもむつかしい。問題は、仕事か、家庭か、というそんな単純なことではないのだ。仕事をとらなかったとしても、家庭もとらない人生がありえて、そのような人生が、どのようにすれば、他の人生と同等に尊重されるか、という、そういうことだ。そして、そのとき、社会はいつでも、結婚しているひとが結婚していないひとに、結婚していないひとが結婚しているひとに移行することが可能で、その選択が自由で、そして、尊重されるようなものとしてあらねばならないだろう。

 

とはいえ、結婚がおそらく一筋縄では片付かないのは、そこに生殖のロジックが関わってくることと関係している。安っぽく言い換えれば「生きているうちに孫の顔がみたい」というあれであって、物騒な言い方をすれば、それは国民国家にとっての社会保障政策を左右するものであり、また国家の存続の根幹と関わる問題でもある。だからこそ、国家は結婚に、家族に、子どもに介入しようと様々な圧力を加えてくる。そして、それらのことは、別にもっと丁寧に考えなければならないのだけれど、今回は一旦このへんで筆を休めることにしようと思う。

 

「いつまでも独身でいるつもり?」とは言わせない。