「わからない」ことを生きる.

私たちは、どれくらい世界をまだわかっていないのだろうか。
あなたまでの距離はあと何マイルくらいの遠さにあるのだろうか。

発達に特性のある学生さんから話をきく機会を幾度も持ってきた。彼ら/彼女たちと話をしていて、よく持ち出される「困り感」のひとつが、(彼らからすれば)他のひとにはわかっているようにみえる、他者の感情の機微が自分たちにはわからないということだ。確かにその「困り感」自体は、とても納得のいくもので、たとえば、そのわからなさによって、彼や彼女が「空気を読めない」と周囲から謗られ、次第に孤立していってしまうプロセスもよくわかる。だから、安易なことをいってはいけない。いってはいけないのだけれど、それでも思うのは、それでは発達に課題があるとされていない、いわゆる定型発達のひとは、ひとの感情、もっと広くいえば、ひとのことが、それほどよくわかっているのか、ということだ。

実のところ、私たちはたぶんわからないものに囲まれて生きている。

 
二十代の前半、小学生に国語を教えるということを仕事にしていたころ、20数年もその教室で教鞭を執り続けているベテランの講師のことばのなかに、とても印象的なものがあった。

まずはことばで書かれた、たとえば「かなしい」ということが、心ではどういうことなのか、文章を読みながら一緒に感じられるようになること。それが最初の課題です。

 私たちは言語習得のプロセスの中で「かなしい」や「うれしい」を、どのような場面で使えばいいのかを概ね理解してきたつもりになっている。しかし、実のところ、あなたの「かなしさ」と、私の「かなしさ」が本当に一致しているのかを確かめるすべはない。この不一致を無視して、共感だけを求めようとするコミュニケーションが、しばしば互いのすれちがいを生み出し、人間関係に軋轢を、あるいは誤解を引き起こすことになるのだけれど、ともあれ、私たちは思っているほど、互いのことをわかってはいないのだ。しかも、それは表面的なレベルにおいてではなく、もっとも根源的な位相において。



社会とは、いわば、そのような「わからなさ」を地ならししていく、あるいは結びつけていく作業の工程であり、場所だともいえる。本当は互いにわかっていない、一致しているか定かでないものの中で、暫定的な合意を、あるいは多数意思をつくりだし、透明なコミュニケーションの場をつくりだす。そこでは私はあなたのことをわかっているし、あなたは私のことをわかっていることが前提だ。このことは、おそらく、少し飛躍めいてしまうかもしれないけれど、資本主義社会の根本的原理のひとつである交換原理とも関係している。なぜなら、交換が可能であるためには、互いに一致できる部分を私たちが持つことが必要不可欠だからだ。

そして、資本主義社会は高度化し、感情さえも商品としてしまった現代において、私たちは共感や「わかり感」に基づいて結びあい、コミュニケーションを重ねるようになって、いつしか「わからなさ」は、この世界から排除されていってしまった。先ほど、定型発達と書いたけれど、そう考えてみると、まことに発達障がいとは社会的に構築された障がいに他ならないことが知れてくる。これほどまでに私たちが共感や、「わかる」ことを旨とする社会に暮らしていなければ、そもそも、彼らの「困り感」のある部分は生じてさえいなかったかもしれないからだ。それどころか、定型発達者のわかったように思いなすことの方が、むしろ、不気味なことにさえ思われてくる。



このような社会において、演劇の持つ役割、あるいはアートの持つ役割とは、何だろうか。

私はひとつに「わからない」ことを、回復させることではないかと思っている。単一のメッセージを最適化された方法で伝えるならば、それはアートである必要はない。それはアートではなく、広告か、プロパガンダの類である。

かんちがいしないで欲しいのだけれど、私はいわゆる作品のメッセージ性を否定しているわけではない。それどころか「わからない」ことに甘えて、考え抜かれることのないまま、何となくで提示されてきた作品に対しては基本的に厳しい態度で接してきたつもりだ。メッセージ性があってもいいのだ。けれども、たとえば「恋の切なさ」を伝えるにしても、作品全体がモチーフに対して不可欠、不可分であること、ぴったりと寄り添っていること。そして、そのとき、そこでは、そうでしかありえなかった表現にまで辿りついている必要があるだろう。だから、その意味で雰囲気だけの作品を「わからない」と得意げに好事家が持て囃すようなことも勿論あってはならないことだ。

私は、考え抜かれた末の「わからなさ」にもっともっと出会いたい。



世界がまだ像を結ばなかったころ、アートはひとつの世界像を提示するためのメディアであったかもしれない。しかし、今日において無数の整合性のある世界像が自由に語られ、それぞれがその内を生きる中で、重要なことは、むしろそれらに揺さぶりをかけること、そして突き崩すことにあるのではないだろうか。

だから、若いひとは自分たちの作品が「わからない」と評されたからといって、決して臆する必要はない。それどころか「わからない」ことをもっともっと突き詰めてみるがいいと思う。ただし、繰り返しになるけれど、そのとき「わからなさ」を「考えのなさ」の言い訳にしてはならない。「考えのなさ」を「わからなさ」のようにみせかけただけの作品など、観客にはすぐに見透かされてしまうからだ。考えて考えて、考え抜いて、それでも曖昧なこと、釈然としないこと、こたえがどうしてもひとつには思えないこと、そういうことをプロセスも含めて提示する演劇、私はそういうものをみてみたい。



そして、もうひとつ、大切なことは「感じる」ことを復権させることではないか。「わかる」ー「わからない」の軸ならば、私たちは「わからない」ことに思いを致すべきだと私はここまで書いてきた。と、同時に「わかる」と「わからない」だけで成立するコミュニケーションは極めて貧困で、そして味気ないものでもある。

私たちのこころには「わかる」「わからない」の手前で、世界を、他者を享けとって、何ごとかを感じるという経験が存在するのではなかったか。ただ、まだ未知のあなたをひとつの総体として感じること、それはひとつの官能でさえある。

「わからない」、そして/けれども、何か切ない印象を私たちに残す。たとえば、だけれど。そういう作品がつくりたいし、もっともっとみてみたい。そして、おそらく、この「わからない」こと、感じることを大切にすることというのは、以前に書いた「みえないもの」と結びあうことと、どこかできっと結びついている。そんな気がするのだ。