私は、私のことばを取り戻す.

17歳。一度きりの一年。はじめての愛。はじめてのピアス。
白みはじめた空を横目に、線路沿いの路地をお気に入りのチェスターコートのポケットに手を突っ込みながら、ずんずん歩く。低い冬の陽射しがキラキラと水たまりに乱反射している。吐く息も白かった。
世界の何もかもがきらきらしてみえて、だから、大人はほんとうのことなんて何ひとつ知らないのだと思った。
それどころか、大人になることは、ほんとうのことをひとつずつ忘れていくことだ。私だけが、私たちだけが、ほんとうのことを、世界の秘密をしっている。けれど、それは日毎に少しずつ少しずつ失われていく。

10代の後半と20代のはじまりの数年を、文学部哲学科の学生として鬱蒼と茂った精神の森の中で暮らした私には、そのころからひとつ釈然としないことがあった。そのときには、まだ確かなことばにできなかったのだけれど、いまならできる。

それは、たとえば、誰かが何かを考えたとき、語ったとき、それらについて、思想家や哲学者の名前を持ち出して、それは既に論じている問題だとして片付けてしまうような態度への疑念だ。

このとき「あるとき」「誰か」が何かを語った「こと」のうち、語った「こと」だけが取り出されて、「あるとき」と「誰か」は片隅に無残に打ち棄てられてしまう。普遍と真理を志向する哲学という営みにとっては、個人などというものは取るに足らないものであるのかもしれない。

けれど、と私は思う。「いつ」「誰が」そのことを語ったのか、ということもまた、そこで何が語られたのか、ということと同じくらい大切なことなのではないか。たとえ、同じことでも他ならぬ〈あなた〉が「いま」そのことを口にしたということがとても得がたく、かけがえのないことなのだ。もしかしたら、今から私が語ることも、これからあなたの語ることも、それは既にあるとき誰かが語ったことだったのかもしれない。それどころか、あらゆることは、恋人たちのあらゆる愛の言葉は幾度も幾度も気の遠くなるほど繰り返し、語られてきたことであるかもしれない。

時計の針が逆転していく。あるとき、私たちは戦火の中、ふたりであることを引き裂かれた。あるとき、私たちは豪華絢爛な城塞で飽食の限りを尽くして、ふんだんに装飾のこらされたベッドで睦言を交わした。あるとき、私たちはふたつの河のほとりの砂の文明のなか、愛し合った。あるとき、私たちは原生林の恋人同士で、もはやことばさえ、持たなかった。

他ならぬ「いま」〈私〉が、あるいは〈あなた〉が、そのことを語っているのだということ、このことは、もっと顧みられていい。

愛も恋も類型化して整理すれば殆どのことは既に誰かに言われてしまっていることだろう。それどころか、内容だけで考えるなら、語り尽くされていないことがらをみつけることのほうが、よほど難しいかもしれない。

けれども、大切なのは「そのとき」〈あなた〉が刹那に感じた「その感じ」なのであり、そのことばなのではあるまいか。一般的であること、共約できることを日々求められる「大人」は、このことに酷く鈍感になっていく。「つまり、どういうこと?」「だから、何?」 いちばん、ききたくないし、いいたくない種類のことば。



17歳。私は私の言葉を誰にも渡さない。そっと私だけのことばを胸に抱きしめて、歩き続けるのだ。
遠くで踏切の遮断機の音が鳴っているのが聞こえる。駅までの道はゆるやかな下り坂だ。
上気した頬に朝の冷たさが心地よい。私は、私を生きる。