生と性をめぐるささやかな冒険たち(1)

ヘラヘラと笑う体育科の教員が木の棒にコンドームをつけた。私の高校時代の保健体育の授業についての、唯一の思い出。滑稽だ。テストでは女性器と男性器の部位の名称を記述させられた気がする。

小学生だったとき、ある日、授業の時間に男子だけ外で遊んできなさい、と言われたこともあった。私たちは突然のことに戸惑った。それから、しばらく時期を経るまで、私は月経についての正しい知識を持ち合わせなかった。

若いひとに向けてつくられた多くの娯楽作品は恋愛をあつかう。恋をすることは、まるで青春の専売特許のようだった。それが少しだけ怖かった。中高生という人生でいちばん恋をするのにふさわしいらしい時期を、男子校という、私にとってはいやでたまらない場所で浪費してしまうだけなのか。その後にも恋はあるのかどうか、そのころには、まだわからなかった。

 
アダルトメディアは、友だちのあいだで秘密という名の下で公然と出まわっていたけれど、あのころ、私たちはひとを愛することについて何も知らなかった。AVにあるのは、ファンタジーとしてのセックスだけだった。誰もセックスに至る前の恋愛について、それから、アクロバティックな体位を駆使するわけでもない、お互いを大切に愛しあうためのセックスについて知らなかった。

恋愛なんて自然に学ぶものでしょ。なるほど。学校の授業でマニュアルのように習うものではないかもしれない。しかし、話すことのできる場所がなかった。セックスについても、恋愛についても、それ以外の性にまつわる様々なことについても。あのとき、私たちは自分では抱えきれないほど欲望を前に確かに当惑していたはずだったのに。



精華高校「大阪、ミナミの高校生2」を観た。そして、世田谷パブリックシアター「地域の物語 2018」に出演をした。「大阪、ミナミの高校生2」は、高校生の恋愛とセックスを扱った作品だ。「地域の物語」は「生と性をめぐるささやかな冒険」と題して、ここ数年ほど同一のテーマを、公募で集まったメンバーと一緒にワークショップ形式で作品づくりをしている。

「大阪、ミナミの高校生2」を観たのは、ちょうど私が「地域の物語」の稽古に取り組んでいる時期と重なっていた。大人たちの稽古場では、実社会では一年分くらいの量のセックスということばが数日の間に飛び交っていたから、随分と感覚が麻痺していたのかもしれないが、それでも、一種のパロディとしてであれ、学校という場所でセックスのことを「ピー」と表現するという演出、多くの場合、それが高校生の共感を得やすいであろうことに、まず驚いた。



学校でトムとセックスをしたマリーは、先生に呼び出されて、教室で「ピー」をしたことについての反省文を書かせられるが、先生とマリーの立場は根本的にすれちがう。マリーは人間として問いを発するが、先生は学校のひとつの機能を担う部品として求められる言説を口にする。(それだけでない先生の苦悩の片鱗も見え隠れするのだけれど)。だから、マリーにはさいごまでわからない。どうして学校でセックスをしたらいけないのか。大好きなひととセックスをしてはいけないのか。たとえば、高校生同士でホテルに行ってセックスしていたら、どちらかの部屋に遊びに行ってセックスをしていたら、それもいけないことなのだろうか。セックスがいけないことならば、大多数の大人はいけないことをしており、子どもたちはいけないことの結果、生まれてきた存在なのだろうか。

マリーの物語では、学校という場所の持つ奇妙な構造と、そのなかで人間であることと教員であることの間で半ば揺らぎ、半ばあきらめた教員の煩悶がみてとれたように思う。



先生は生活指導よりも数学を教えたかった。虚数「i」、「i」は向き変えなのだと先生は熱心に語る。それまでになかった地平に目を向けさせるのが、あい、なのだ、と。あい、を知っているはずの教員が、生徒たちの愛の結果としてのセックスを否定せざるをえない。これは苦しいことだ。恋愛は奨励され、美徳のように語られるのにも関わらず、セックスのことは隠蔽され、ひそやかに生徒同士の間でだけ、教師同士の間でだけ語られる。

なぜ、私たちは現にあるものを無視するのか。それは学校が特別な場所だからか。それでは、その特別さとは何なのか。そろそろ、そんなことはやめにしないか。



「2」は「1」と比べて、よりモノローグのシーンが増え、作品が非構成的なつくりになっていることも印象的だった。愛やセックスのことを語るとき、ひとは誠実であろうとするならば、ポリフォニック(多声的)であらざるを得ない。未成年の妊娠や高校生のセックスという、ともすれば、センセーショナルにもなりやすいテーマを、紋切り型の定型的な物語に陥らせずに彼らの固有の物語に昇華させた手腕は、やはりさすがというほかない。

恋人のいるよろこび、パートナーのいないことへの焦りから、ある種の性嫌悪自体も無視することなくあますことなく描き尽くしたところに作品の強い魅力と、共同制作という手法の可能性をみてとることができるだろう。

これは「地域の物語」の制作プロセスでも持ちあがった話題だが、セックスについて語るとき、多くの場合、議論の参加者は既に性的な主体であることを引き受けてしまっているという前提がそこにある。つまり、性的な主体となることのできない人、なりたくないひとは、予めその輪から排除されやすい構造がそこにはあるのだ。

だから、セックスが話題にのぼるとき、性的な事がら自体に抵抗を覚えるという感覚の持ち主のエピソードは、どうしても無視されやすい。そのことを無視せずに「大阪、ミナミの高校生2」は、きちんと盛り込んでくれた。それだけでも私にとっては意味のあることだった。



ラストシーンにマリーはいない。学校を去ったのだ。いや、彼女は学校という機構から排除されたのだ。でも、マリーは学校が好きだった。そして「でも、マリーは……」。その後に続く問いかけに私たちはどれほどの答えをもちあわせているだろう。

別に互いに目配せしあったことは一切ないが「地域の物語」はその疑問に対する大人からのこたえであると同時に、さらなる問いかけでもあった。

生と性をめぐるささやかな冒険たち(2) - 天使なんかじゃない へ続く。