生と性をめぐるささやかな冒険たち(2)

生と性をめぐるささやかな冒険たち(1) - 天使なんかじゃない より続きのポスト。

(承前)

「大阪、ミナミの高校生2」と「地域の物語」は互いに目配せしあったことは一切ないが、後者は前者の疑問に対する大人からのこたえであると同時に、さらなる問いかけでもあった。

セックスやパートナーシップをめぐって「地域の物語」には、たとえば「大阪、ミナミの高校生2」では問題にならないような話題がのぼる。たとえば、セックスレス、あるいは「妊活」。

今年の「地域の物語」では「男と子育て」「セックス」「男らしさ・女らしさ」、3つのテーマを設けて制作を進めてきた。この「地域の物語」の内容とインプレッションについては、既に多くの場所で、多くのひとがさまざまなことを述べている。だから、私からは必要と思えることを必要なだけ。主にアフタートークで話題になったいくつかの論点を拾ってみる。

 
まず、作品の新しさや発見ということについて思うところを書き留めておく。

私は生きることにおいて、事がらの「新しさ」、事がらの内容と同じだけ、事がらの話者が誰であるか、いつ、どのような気持ちでそのことを口にのぼらせているかということは重要なことだと思っている。

たとえば、女らしさについて。たとえば、戦争について。これまで無数の似たような話が繰り返されてきたかもしれない。社会のこなれた観客たちはそのことに飽き飽きとして、何か新しいものに出会いたがっている。しかし、重要であるのは、それらがいずれも「同じ」ことではなく「似たような」ことであるということだ。どれほど、似た物語であれ、あるいは同一の人物の語りにあってさえ、語られるときに応じて、その物語が本当の意味で同一であるということは〈ありえない〉。

少し脱線をするけれど、近代における私たちの知に対する根本的態度は事がらへの注目によっていた。誰が語るかではなく、何を語るか。もっといえば、「誰」が「いつ」「どこ」で、といった要素は「非客観的」「非科学的」であるとさえいわれ、知の土俵から排除されてきた。もし、現代における知の展開がありえるとするならば(そして、このことは既に私だけでなく多くのひとが述べていることだが)それは「いつ」「どこで」「誰が」語っているか、ということの復権に他ならないだろう。

「地域の物語」はそのための企ての一つである。そこで大切なのは、他ならぬ〈私〉が、あるいは〈あなた〉が、過ぎ去っていく「いま」「ここ」で、繰り返された物語を、我がこととして語ること、生きること、演じるということだ。

私は、このことを何も言っていないことだとは思わない、それどころか、このことによくよく思いを致すことこそが今日における他者への根本的倫理だとも言い切りたい。



もうひとつ、上演の安全性ということについても考えてみよう。

たしかに個人的な事柄と思われる内容について不特定多数の観客を前に上演をすることはリスクを伴うことと考えられても仕方ない。

しかし、あれは「私」の物語ではない。ワークショップを通じて吟味され、共同化された「私たち」の物語なのであって、そのとき、そのことを、たまたま、彼女が、彼が語っているのに過ぎないのだ。だから、語られた内容を属人的な事がらとして理解し、そこで覗き見根性を発揮するのは、いささか品性に欠ける態度と言わざるをえない。そして「私たち」のものになった物語はそれほど簡単には揺らがない。

さらに、私が気がかりなのは、性について語ることがリスクであるとき、個人を守ることを優先し、そのような社会を変えることに目を瞑ってしまって構わないのかということだ。私たちは誰もが堂々と性について語り、性と向き合うことのできる社会をつくっていかなければならないのではあるまいか。あえて、挑発的に書くならば、セックスは、もっともっと公共化されなくてはならないだろう。



「地域の物語」は、決して教育や啓蒙のためのプロジェクトではない。とはいえ、メッセージがないわけではない、教育的効果がないわけではない。ただ、メッセージよりもっと定かでなく、そして幅広くあるもの、それはひとが生きている風景そのものだ、そういうものを伝え、届け、分かち合う場所、相互に、出会い、ふれあう場所、そのような場所なのだろうと思う。

だから「地域の物語」では、来場者も「社会の観客」に留まることをゆるされない。それぞれの人生を「私たち」の物語として記述するひらかれた舞台はあなたも招き入れ、共に学び合う場所をひらくのだ。だから「地域の物語」はすぐれて上演でありながら、やはりワークショップ的でもある。そのような場所である高揚感が、確かにラストダンス、照明を浴びておどる私のもとには存在をした。

今回「地域の物語」で、トラムの舞台に立って、久しぶりに演劇をはじめたあの日の自分の喜びを思い出した。それは誰かが自分の生きていることに立ち会ってくれる喜び、あなたと舞台と客席という垣根をこえて出会うことのできた喜びだ。私は確かにそのような喜びに貫かれていた。



「地域の物語」「大阪、ミナミの高校生2」はともにポリフォニック(多声的)で、非直線的な語りを採用しているという点で共通しているが、これらの作品は今後における現代演劇のひとつの方向性を指し示しているようにも思われてならない。

大きなことを書いてしまったから、恥ずかしいけれど、私自身のことも書く。私にとっては、母をめぐる2つの物語、ワンピースを着る母と、過剰に男らしさを求める母の物語を語ることこそが、自分にとって、いま、必要な表現だった。

男らしさを強い続けてきた母を告発しながら、彼女の中に欲望されても得られなかったもの、手の届くことのなかったもの、欠けたものものがあったかもしれないことを明らかにすること。まだすべてをゆるすことはできないが、ただ、そのようにあることをみとめること。そのことに気づき、「腑に落とす」ために、私には演劇が必要だった。ときにジェンダーは世代をこえて、私たちの胸の内に横たわり続ける。



「地域の物語」に出演して、自分でもまだ演劇を続けようと思った。

 もっと演劇の可能性に賭けてみようと思った。

 これからも演劇で生きていく。
 そして、演劇と生きているひとと共に歩み、考え続けたい。