20190414

新任教員への助言を記した文章の中に、教室ではいつでも笑顔で、といった趣旨の文言が書かれていた。私はこのような文章が生産され、それをありがたく読む教員が存在する限り、日本の学校文化の抜本的な改革は不可能だし、そこに伏在する病理もまた治ることはないだろうとおもっている。

四月、新学年を迎え、あるいは新しい学校環境を迎え、そうでなくても不安でいっぱいの生徒は少なくない。確かにそのようなとき、教員までもが不安そうな顔をしていては、教室で全員がおろおろするだけとなってしまって、誰も生徒たちを力づけ、安心させることができないではないか、だからこそ、教員はいつでも教室では笑顔でいるべきなのだ、確かに一定の説得力をもつ主張ではある。

しかし、なぜ一緒におろおろしてはいけないのだろう。不安をわかちあうこともまた一つの人間のあり方ではないだろうか。貼りついたような笑顔で形ばかりの安心のことばを生徒にかけるよりも、一緒に不安な気持ちをわかちあってくれる若い教員の方にこそ、生徒たちは信頼を抱くのではないだろうか。

そして、それだけではない生徒から信頼を得ようとも、得られまいとも、もうひとつ忘れてはならないのは、学校文化は生徒たちに自己開示と自己表現を求める場でもあるということだ。戦後民主主義によって形作られてきた現代の学校教育は概ね「そのひとらしくあること」を至上の価値として位置づけている。だからこそ、それぞれの生徒は折に触れて「そのひとらしさ」を表現し、発揮することが求められてきた。

そのような自己開示と自己表現、そしてそれに伴う直截さを求める学校という空間において、なぜ教員だけが感情を管理し、統御しなければならないのだろうか。高度な専門的職業人としての役目というのはひとつの回答だろう。確かにカウンセラーや看護師がことあるごろに患者やクライアントに共感して涙していては、それぞれのコミュニティはたちまち機能不全に陥ってしまうだろう。

しかし、教員とカウンセラーや看護師の異なる点は、教員はしばしば生徒たちにとって最も身近な「大人」のロールモデルのひとつになるということだ。そのような存在である教員が日頃からダブルスタンダード極まりない行動を遂行しているならば、そのとき、生徒たちの「大人」に対するイメージはどのようなものになるだろうか。私は一方でそのようなことも危惧してしまう。